―映像を見られたメンバーの皆さんの反応はいかがでしたか。
みんな喜んでいました。笑ってましたね。僕も見て、良い記録だと思いました。今はみんな映像疲れしてるかもしれないけど、後々きちんと見てくれる人はたくさんいるだろうし。「コロナの身体」が映っていてすごくいいなと思いました。あの撮影にはみんな長い時間を費やしましたが、集中が切れなかったし、すごいなと思いました。やりたいっていう感覚があったのかな。
―ソケリッサはコロナ禍でどういった活動をされていますか。
ソケリッサの活動は、自粛の時は稽古は休んで、自粛明けからオンライン中心、あとは映像ですね。人前でのパフォーマンスは一回ぐらいしかやってないです。人前でやることの感覚に対して改めて得るものがあったし、それは良い経験かなと思いますね。新しいことに挑戦しようという感覚が自分も含めて生まれてきたし。コロナじゃなければという感覚よりも、コロナだからできることをできたかなと思っています。メンバーのなかには自粛でずっと外出できず、仲間とも会えずに一人で過ごすことのギャップで色んなことがしんどくなったメンバーもいましたけれど。僕は、比較的にメンバーはみんなあまり社会とリンクしてない身体のような気がしています。やっぱりそういう人って強いですよね、良いとか悪いとかじゃなく。いわゆる個人主義というか、集団に属さずにいろんなことを見ている。集団でいると、何かやらされてるとか、選ばされてるとか、そういったことがよくあると思うのですが、メンバーは自分の衝動で動いてるというのがわかるから、その辺は強いなと思いました。
―社会的なアイデンティティは身体にも表れるということですか。
一般の生活をしている人は社会に合わさざるを得ないから、依存しないと生きられない状況ですよね。それがコロナになって急に、個人でやってください、離れてくださいとなって、どうしようかと苦しんでいる。本当に密接に社会と、集団とリンクしていることに気づいた人が多いと思います。自分も含めて。命を絶つ人や心を痛める人が増えたりというのは、必然的にそれが身体全体に蔓延している部分があるからじゃないですかね。
―それに対してメンバーはあまり変わっていないということですか。
メンバーの多数はそういう部分を感じますね。純粋に稽古がなくて暇になったとか、やることがなくなったとか、ストレスのレベルがそういうところぐらい。色々考えさせられますね。集団の身体と個人の身体について。
―集団の身体と個人の身体—興味深いですね。アオキさんはソケリッサの皆さんの踊りや身体のどういうところに面白さを感じられているんですか。
自分とは真逆の部分ですね。僕はいろんなものをとにかくもう離さないように生きてきたけれど、彼らはそうじゃないというのがひとつ。あとは、やっぱりリアルな生きる身体っていうのかな。生きることに対して、すごくリアルさがある。僕はいろんなものに守られて便利な中で生きてきたし、そういう部分で感覚的にも欠落してる部分があるんじゃないかなというのは感じますね。
―ソケリッサの踊りと一般的なダンスとの違いは、ダンサーが持つ社会的な背景だけでなく、一般的なダンサーと比べた場合の身体能力の違いもありますね。
僕は別に上手くなってもらわなくてもいいと思ってるんです。そういう上手い/下手の価値じゃなく、転びながら普通に生きている、その身体の延長を見せてほしい。そういうものが本当に価値があると思っています。一般の人は、上手いとか、技術が優れてるとか、努力をしてるとか、そういうところに価値を置いていますが、それは逆に自分たちを苦しめているとも思うんです。だから僕たちの役割としては、あのままをいかに見せるか。骨格とか太ってるとかも、ある意味生きるための手段でそうなってるわけですよね。ストレスを解消する為にご飯を食べてるかもしれないし。それをいきなり「あなたはもうちょっとこうした方がいいよ」と言うことは簡単かもしれないけど、そうではないと思う。踊りのためにこうしたいなと思えば変わればいいんだけど、こちらから踊り以外で提供することはひとつもやりたくないですね。
―身体を見せることの延長に踊りがあるとすれば、踊りって何なのでしょうか。
それは人によっていろいろ捉え方がありますよね。それが大事かなと思います。元々は神頼みとか、そういうところから踊りっていうのは始まっています。それって衝動ですよね。食べ物が欲しいとか、雨が降ってほしいとか。でも今は形式から逆に入ってくる。こうやって動いたらお金がもらえるとか、承認されるとか。その差はすごく大きいと思いますよね。でもそれをどうこう言うより、それを理解したうえで現代の身体をいかに提示するか。ある意味僕は形式の身体だと思うし、おじさんたちは衝動から生まれる身体。その対比というものが見せる部分だと思うし。僕たちは形式ではない踊りの価値を見せていくのも大事だと思っているし、今あるものを否定せずに広げられるといいなと思います。
―今回あっこゴリラさんと競演してみてどうでしたか?
「RAW」というのが良いですね。完成しないものを提供するというのは、すごくいいと思いました。人に何か提供する時は、ついついみっちりと形にしたものを見せたいと思ってしまいがちです。でも中途の部分にこそリアルな姿が現れていることも今回すごく感じました。今後繰り返すことによって、新しい形態や、形ができてくるんじゃないかな。価値の提供と言ってもいいのかもしれない。そこで勝負する感覚がすごく良かったですね。
―後半メンバーがやることがなくなってきたところが、その人自身が出ていてすごく面白いなと思っています。
あれはすごいですよね、リアル。あそこからが本質のような気がしました。事前の準備ではなくて、日常が大事な感じがすごくします。そこで得ていることが、本番で出てくる訳だから。面白いですよ。
―今回メンバーの様子を見て感じたことはありますか。
みんな女の人だと気合いが入るみたいです(笑)。あとは純粋にあっこゴリラさんの次から次へと生まれてくるラップに驚いてましたね。僕はおじさんたちがあっこさんに叩かれたりとか押されたりしていたのがすごくいいなと思ったし、みんなも面白がっていました。持ち上げられることが多いので、あんまりそうされることが少ないんですよね。僕たちも特別な人じゃないしね。罵られるというか、そういうふうにされるのはいいなと思いましたね。
―持ち上げられることが多いというのは、距離を置かれるということですか。
福祉的な視点から見る人は、路上生活=かわいそうな人だから何かしてあげなきゃとか、応援してあげなきゃとかね。もちろんそれはありがたいことなんですが、どこか形式的な部分もある。自分たちは普通のおっさんたちだし、「もうちょっとマシな服ないの」とか、そういう言葉はリアルだと思います。そういう人と付き合うとみんなも生き生きとするし、ナチュラルな感じがしますね。
―普段から人としていろんな側面を見ていないと気づけないことでもありますね。
難しいですよね。自分も気づかないうちにそういうふうにしていることもあるのかもしれない。障害者とか他の人に。距離が遠いんじゃないですかね。実際に話しかけたり、触れないとわからないこともある。遠巻きで見て何かを判断して決めてしまってる部分は、誰にでもあると思います。だから踊りとか、ラップもそうだけど、そうやって何か表現を通して人と接すると、リアルな部分でつながれるのかなと思いますね。
―アオキさんはプロデューサー的な立場でもあると思うのですが、ソケリッサの踊りをつくったり伝えたりするうえで気を付けていることはありますか。
ソケリッサを始めた当初は、路上生活者を利用してお金を稼いでるとか言われたこともあったけど、実際にお金稼げてないし(笑)、今まで続いているということであまりそういうことは言われなくなりました。僕はとにかく面白いものを作ろうと心掛けたかな。おじさんたちを「路上生活の人たち」と社会に公表しているわけだから、その責任とかも最初は考えました。でも面白ければそういうのもすべてチャラになる。だからやっぱり作品の強度をいかに強めていくかというのは、最初から心がけてきましたね。最初は社会福祉の発表会みたいな目で見られたけど、絶対そういうものにはしたくなかったんです。それは今のところはうまく行ってるかなと思います。あとはきちんと対価を払う。ダンサーとして出てくれたことに対して。そういうのも大事にしなきゃいけないなと思っています。日常は逆に知らない方がいいですね。話のネタで知っちゃうけど。少しでもかわいそうに思ってしまうと、この人のためにこうしてあげなきゃと、作品や踊りがだんだん緩くなっていく。ダンスってどこかしら傷つける部分があると思うし、いろんな側面があると思うんです。だからそういうところは見ない。見ないというか置いておく。
―上達することを目的としていない踊りを、観客はどう見ればよいのでしょうか。
阿呆になれたか、というところはすごく大事な感じがしています。人はやっぱり阿呆だと思うし、踊る阿呆で見る側も阿呆になる、ということ。今回も伊藤さんがヘルメットを被って踊ってたりとか。笑わそうとしないで笑わせるのってすごいですよね。みんなは終始至って真面目なんだけど、やっぱり笑ってしまう部分がある。映像を見てみんなも笑ってたし。それはすごく大事ですね。ソケリッサのメンバーは、みんな自虐ができるから強いんです。自分は歯がないとか、彼女おらへんとかね。自虐ができない人って真面目にいろんなことを抱えてしまって苦しんじゃうんですよね。続いているメンバーは、いろんなことを自虐的な視点で捉えることができているかな。もしかしたら、笑ってもらえることが一番面白いのかもしれないですね。
聞き手:田中みゆき(東京都渋谷公園通りギャラリー) 写真:荻原楽太郎