伝わらない絶望と、それを解き放つパフォーマンスの力―あっこゴリラインタビュー

パフォーマンス・シリーズ「RAW」
あっこゴリラは、ラッパー/フェミニストとしてあらゆる差別に言及してきました。今回は新人Hソケリッサ!と初競演するにあたり、ビートに乗せて即興でラップを行うフリースタイルで臨んで頂きました。ここ数年、フェミニズムに関する論争が白熱するなかで、度々意見を求められてきたあっこゴリラ。久しぶりのライブでソケリッサを前にして投げかけられた、社会的な抑圧に対する熱いメッセージに込めた想いをお聞きしました。

―パフォーマンスの間、かなり感情が揺れ動いていた様子を拝見していましたが、改めて振り返ってみて、いかがでしたか?

今回は一か月前ぐらいからずっと準備していたのですが、いざ本番になってみたら、ライブというものを全然やっていないのもあって、興奮しちゃいました。何か笑いましたね、ステージに上がるだけで、めちゃめちゃテンション上がってしまって。ステージに出たての人のようなマインドに戻ってしまったところがありました。もしパンデミック前だったら、ああはならなかったと思います。そういう意味で、とてもリアルだったなと思います。

打合せの時に、今回ラッパーとしてどういうスタンスで言葉を発するかを自分の中で整理しないといけないとお話されていたのが印象に残っています。特にソケリッサのような特殊な属性の人たちの場合、触れたらいけない部分があるのではないかと思う人もいると思うのですが、どうアプローチするか、難しさはありましたか。

そうですね。一番気をつけたかったのは、彼らの代弁はしないということでした。私は当事者ではないということが、まず大前提にあります。そこは絶対にぶれさせたくなかった。それと同時に、私も多様性というものを発信している側面もあると思います。例えばフェミニズムは今ムーブメントなので、ロールモデルとして何か話してくださいと言われることも多いです。それも別に間違ってはいないけど、本質まで考えている人はどこまでいるのかなと思うことも多々あります。多様性は流行りだけど、経済的な考え方で多様性を発信するのは私には辛い。それは二年前ぐらいからずっと思っていたことです。

経済的な考え方での多様性を考えるにあたって象徴的なのが、ミヤシタパークだと思います。多様性の名の下で、ホームレスの人たちは排除されている。そういう意味で、私自身も多様性に殺されてる部分はかなりあると感じています。そこが彼らと私の共通項だと思っているので、私自身が感じる多様性というものに対する息苦しさみたいなものを私の目線でラップするのが一番しっくりくると思って臨みました。ただ、いざ本人たちを目の前にすると、踊ってる様が雄弁過ぎて、食らってしまいました。肩書きや属性みたいなものでいろんな問題が起きているけど、私たちはただ生きているだけ。そんな人間の哀しさみたいなものや圧倒的事実が、彼らが踊ってるだけで感じられたんです。

フェミニストとしてこれまでたくさんインタビューを受けられてきていますよね。

‟フェミニスト”って自称しているミュージシャンが他にいないんですよね。海外ではたくさんいるんですよ、当たり前ですが。日本は自称する文化じゃないからかな、別にしなくてもいいとは思うんです。でも、だからそういうインタビューが私にたくさんくる。三年前から言ってることだけど「目からウロコでした」と言われることも多いので、まだまだやらなきゃいけないんだなと思います。

でも私も含めて、受け取る側って見たい部分しか見ないんですよ。だから私が構造の話とかメタ視点の話をしたところで、ゴリゴリのフェミニストが正義正論振りかざしていると思いながら読むと、そうとしか受け取れないし。ネットニュースも、自分の発言が全然違うふうに書かれたことがめちゃくちゃあるので、経験上わたしはそんなに信じないです。何かを変革しようとすると、うるさいと言われるようになってしまう。そんな息苦しさもあるから、みんな疲れちゃう。それはフェミニストだけに限らず。

―そんな時にソケリッサの踊りを見て「食らった」のは、彼らの踊りがそういうカテゴリーやジャンルで人を分けることからかけ離れたものだからでしょうか。

ダンスもジャンルがありますよね、ヒップホップとかジャズダンスとか。そのジャンルってルーツがあって、枠のなかで自由に表現すると思うんですが、ソケリッサはその枠自体が全くないから凄かった。見る側が難しく考えたり、「これは何を発信しているのだろうか」なんて考える隙もないくらい、圧倒的でしたね。こちらが受け取ったことがすべてで、彼らは別にそんなこと考えてなかったり、伝えたい訳でもなかったかもしれないし。そこがリアルですよね。だから実際何を発信してたのかは分からないけど、私は個人的にいろいろ想定していたから、より一層食らってしまいましたね。

でもソケリッサも最近 ❝アーティスト❞ ということで持ち上げられることも多いそうです。そんななかで、今回あっこさんが彼らの身体に乗ったり叩いたりしてきたのが良かったと言われていました。

私自身もいろんな国に行ったり、いろんな住環境の人たちと触れ合う経験をして、属性で人を上に見たり下に見たりすることはくだらないなと知ったので、ソケリッサのこともそこまで崇めた目では見ていなかったし、割とフラットに対峙してた。ステージに上がると、みんな一個の生命の塊みたいになるんですよね。どんなステージもそうだと思います。だからそういう意味で‟なにこれ?面白い!楽しい!意味わからん!”というぶつかり合いって感じでしたね。

ソケリッサの踊りをどう見ればよいかを代表のアオキさんに聞いたら、「踊る阿呆」という言葉が出てきました。どれぐらい阿呆になれるかが大事だと。

なるほど。私は衝動的というか、感情の高ぶりが激しいし、それに嘘をあまりつかないタイプなので、やりやすかったですね。大人になっていくと、そういう部分はステージ以外では許されなかったりする。みんな「中指の立て方」が変わってくると言うか。二十代前半に尖っていた仲間たちは、やっぱり立て方変えましたし。私も変わったけど、どちらかと言うと昔より尖ったんです。それって本当の意味で自由を求める衝動だと思うんですよね。それが年齢を重ねるにつれてより立体的になっただけ。でも大人になってもたまにステージ上で一気に阿呆になれるタイプの人たちもいて、そういう人たちと会った時のテンションの上がり具合はありましたね。

中指の立て方が変わってくるってどういうことなんでしょう。

昔はもっと曖昧だったと思うんです。「とりあえず嫌だ」とか、「何で私の人生を勝手に決めるの」みたいな。そういうパンク精神みたいなものがあったと思います。なぜ嫌だと思うかとか、なぜ人はこうしろと言うのかとか、知識と経験がつくと、人間のあり方や社会のあり方も見えてくる。ただ「嫌だ」ではなく、こうなっているから社会の弊害だよねと考えるようになる。根本を変えるには意識を変える必要があるから、それにはどうしたらいいかと考えるようになりました。

起こっていることよりも、その背後にあることに対して中指を立てるということでしょうか。

以前は多分「うざい人」とか、人をベースに考えていたところがあったと思うんです。今はその人には価値観があって、その価値観はどうできていて、変えるのはシステムであって人じゃない、と思うようになりました。それって綺麗事で、それだけでは世界は変わらないんだけど。でも根本はそこなんだよなとすごく思っています。

相手を目の前にして、その人をどう思っているかをさらけ出すという意味で、改めてラッパーってすごい職業だなと今回思いました。

フリースタイルラップって、目の前で起きたことを言っていくんですよね。バンドなら、とにかく自分たちの世界観をしっかり届けるということで成立するのですが、ラッパーの場合は、それで成立するラッパーももちろんいると思いますが、私の場合は目の前にいる人に向けて言葉を発しているし、もう少し具体的。例えば、どちらとも取れるようなことや、本当だったらそこまで描かなくてもいいところまで描きます。でも逆に、言葉って反語みたいな使い方もできるから、言ってることの裏は何なのかを想像させる装置にも使える。だからラップって複雑で面白い世界だったりするんです。あと、その時の感情だけじゃなくて、価値観のプレゼンをしてる感じはすごくありますからね。ヒップホップ自体がそういうカルチャーなので。

速さもすごく大事ですよね。感じたことをその場で反射的に出していく。

だからかっこつけてる暇がない。ルーツを考えたら、初期の頃からヒップホップアーティストって圧倒的に正直なんです。基本的に、俺たちはこうやって暮らしてる、これが俺たちのライフだってさらけ出すところから始まってるから。誰かにご機嫌を伺うというよりも、笑っちゃうぐらい自分に正直な感じがしますね。そこまで言う?みたいな。私も途中でラッパーになった人間なので、それには衝撃を受けましたね。

かっこつけてる暇がないとか、圧倒的に正直という意味では、ソケリッサも通じるものがあるなと思います。

確かに。ソケリッサは本当にもっともっとピュアな爆発を感じた。崇高な考えがあってやってる人もいるかもしれないけど、なんか楽しそうだしやるか、みたいな。たまには体動かすか、みたいなテンションでやってる人もいるかもしれないし。そういえばライブ中に何回か私が言ったことと合わさってすごい動きしてるなというところもあったんですが、最後の方でもう終わりだろうと思って、私は解き放たれようぜという感じだったのに、彼らは列になって行進しだした。ここまで踊り狂って最後行進かよ!みたいな。面白かったです。

私自身もパンデミック前は少し真面目になり過ぎちゃってたところがあったんです。というより、誤解されたり伝わらなさに絶望して、苦しんでしまっていたところがありました。そういうものはいつでもステージで解き放ってきたはずが、そのステージもなくなってしまった。だから余計悪循環のような感じがあったんですが、それがもう解き放たれましたね、あの日は。初めてドラムを叩いた時に、叩くだけで本当に楽しくて爆笑していた感覚が甦りました。

聞き手:田中みゆき(東京都渋谷公園通りギャラリー) 写真:萩原楽太郎

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