齋藤春佳27【手紙は燃やしていないから、でも、出してもいないから手元に残っている。】

とどく 「とどく」齋藤春佳

2023年2月23日

久しぶりにおんぶをしてみたらNがスウと寝たので、今だ!と思って、やっと手紙をスキャンして、封筒に入れた。大木さんデザインの封筒。三枚の便箋を四つ折りにして入れたらプックラして可愛い。

最近1人の時間がなくて、というかたとえあっても、寝るようにしていて(今寝なかった分、後々の寿命が縮みそうな予感がしているから)、かといって手紙をスキャンするタイミングがこの10日間の間にいっさいなかったわけないのだけれど。
1月は



ここまで書いて何かが起こって書くことが止まっていた。
1月は
年賀状のやりとりがあったり、「僕らには僕らの言葉がある」というろう者×聴者バッテリーの野球漫画を友達がふと貸してくれて読んでそのことを野球をやっているHさんに話したいと思って、ちらっとだけ書いたり、した。
(今よく考えたら、FさんもIさんも野球をやっているということだった気がする。)

今は3月1日で、手紙を書いてから数えてしまったらもうこの2週間以上、1人でひとつの空間にいることがなくて、なくて、というのはすごいことで、とはいえ厳密に言えば5日前に髪を切りに行くときに自転車に乗っていた、それは1人で空間にいるということだったけれど、その移動時を除いて1人の時間がなくて、そうしていたら頭が狂いそうになってきたというかそれはオーバーな表現だけれどそうは言っても1時間ほど前にIとテープタイプのおむつとパンツタイプのおむつの呼称についてもめて、「マジであなたと話していると頭狂いそうになるんだけど」と口にはしているという形でそれは実際のことで、そのままにしてはよくないと思う。
なのでNが寝ついた後、夜10時、近所のロイホに来て今これを書き始めている。ここのロイホは秋にも来た。その時も何かしなければならないことが溜まってもうおかしくなりそうな時に来て、その時は何をしたのか思い出せないけれど、めちゃめちゃ美味しい栗とほうじ茶のパフェを食べたことは覚えている。

1人でいないからと言って、辛い時を過ごし続けているかといえばそんなことはなくて、赤ちゃんと2人でいる時間は私はかなり好きで、世界が自分と赤ちゃんの体の間の解像度で立ち現れる。
リサーチといえばリサーチと言えてしまう。
でも、私は、リサーチを価値づけにした作品には、したくない、作品のためにしたくない、制作の時間が、それ自体もリサーチとなりうることが、本当は本当に重要だという立場を取りたい、これはどうしても結局相互作用でもあるから、言い切って終わることでもないから、逆に消えていってしまうんだけれど、たまにこうして書いておくことはそれでも必要だと思って今こうして書いている。


手紙には、
随分雪が降った日、その手紙を書いている前日、
自分の住んでいる部屋の真上の部屋のリフォーム工事の大音量パートが始まって、それはもうすごい音量と振動で、こんな外出しようがない寒い日に限ってどうして?!と赤ちゃんと一緒にしばらく泣いたことが書いてある。
壮絶なことに今うちの左右上下全ての部屋にリフォーム工事が入っていて、いろんな経緯があるのだけれど、有り体に言えばその騒音問題がここ1ヶ月くらいほんとーに!目下の悩みです、赤ちゃんがいなければ、私がただムッとしていればいいだけなのだけれど、と書いてある。
(自分の性格からすると赤ちゃんがいなかったらマジで魂をガンガンに燃やしてペンを燃やしてエネルギー注ぎまくって何かしらの解決をなしていたんじゃないかって思うけれど、今は、言うなれば、赤ちゃんとの時間に魂を燃やしていて、一度その騒音問題についてキレた気持ちで状況説明していたら赤ちゃんが私の「そいつがマジでふざけた喋り方のやつで」っていうところで泣いちゃったというのもあって、だから、結局その騒音問題はなあなあになっていて、ときにその悔しさが心に灯る。でも、だからと言って、赤ちゃんといると自分でいられないのかというと、そういうことでもないという感じ。赤ちゃんとの2人の時間のこの感じは、自分にとっては大きい大きい絵を描いている時期とかなり似ている気がしてきている。ただ、ログが残らない。でも、大きい絵を描いてる時の思考も結局残るのは輪郭だけ。ただ、この2人の時間は、輪郭すら残らないのがおもしろい。でも、ときに、心細い。でも、絵を描いている時だって本当にその時のこと全部は、残りはしない。
ただ、大きい絵も、子との時間も、どちらも、
繋がり方、手続き的なものだけはもしかしたら残るのかもしれない。)

(手紙は燃やしていないから、でも、出してもいないから手元に残っている。)

Hちゃんが以前、「補聴器を外すと音のない世界になって夜は快適です」と手紙に書いて教えてくれたことがふと心によぎった。と書いてある。
この騒音問題について、もしもHちゃんだったら、余裕で楽しく過ごしているのか…とかるい気持ちで思ったんです。と書いてある。

でも、さらに思ったのは、
もしもHちゃんに騒音が聞こえてしまって、悩まされる状況になったとしても
なんとなくだけれどHちゃんは余裕綽々で、朗らかに、いい気分で、その騒音問題に対処することになるんじゃないかな、今書いていてそう思ったんです。と書いてある。


それは、Hちゃんに会って、Hちゃんの”感じ”を知ったから。(手紙でも”感じ”はわかるけれど)

勿論Hちゃんの人となりに、
聴覚障がいがあって、手話で会話をしていることは深く関わっていると思うけれど、
でも、変な書き方だけれど、嫌な気分にさせないといいのだけれど、
もしもHちゃんが聴覚障がいがあってもなくても、
Hちゃんの放つ”感じ”は、その芯の部分みたいなのは、同じくあるんじゃないかなと思ったんです。
分からないけれど。
それにうまくかけているか分からないけれど。

Hちゃんのことを考えたり手紙を書く上でどうしても先んじてあった、それでも薄らいできていたけれど、それでも制作をするとかそういう形にすることへ向かう上でキーワード的にあったというかあるべきであった「聞こえないこと」よりも、Hちゃんのいわばキャラクター、話す雰囲気、やっぱ”感じ”の方が、展覧会が始まって終わって、会って、確からしく大きいものになったんだな…と、今書きながら思ったんです。うまくかけているか不明だが…と書いてある。

今、大木さんデザインの便箋に私が書いているけれど、
そうするとやっぱり大木さんのデザインの形式に字の様子とか何もかも、影響を受けるけれど、でも、
多分私の放つ”感じ”は変わらずあるんじゃないかな、みたいな意味で言っている…と書いてある。

2月11日の3日前に、雪見だいふくを食べたらフタの裏に「ほっと一息する時間を一緒に過ごしてくれて…(略)雪見うさぎより」って雪見うさぎなるものから手紙の体をとったメッセージが書いてあって、私、こういうヨーグルトの蓋の裏とかに書いてあるほっこりメッセージ、なぜかすごい嫌いなんだけど、今日は「あ、手紙書こう」というきっかけになったからよかったです笑。とも書いてあった。


あとの手紙の内容は秘密。



2023年3月6日

朝というか4時に起きて、珍しく意識が覚醒したので、あっと思って、差し出しがとても遅くなった旨だとかちょっとしたことをさらに書いた手紙を、今しがた封筒に入れた。それでこれを書いている。5日前のロイホは閉店時間を迎える前にお客が私1人になってしまったのでちょっと早めに退店した。
その次の日、小川さんからブログを書いてねと言われて、わわわわん、と思うけれど思ったまま過ごす。
わわわわわんと思いながら、
なんで手紙を書いておいてなかなか出せなかったのだろうかと、考えていたけれど、
最近の自分のかろうじて残っているログみたいなのがこの手紙だから手放すのが怖くて出せなかったのかなと思った。

今日こそ手紙を投函する。


【文:齋藤春佳】

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