齋藤春佳14【見つめ返されないことが、会えなさだと思う。】

「とどく」齋藤春佳

5月4日の日記から
陶芸のやりたさが他のやらなきゃいけないことを超えて現れている。


5月8日の日記から
赤ちゃんがどういう状況か知らされるアプリで、
「聴覚がほぼ完成。ただ聞いているというのではなくて、脳の中の神経が繋がったりで、聞こえるということが起きるようになった。」という内容が書いてあって、ヒョエ~と思う。


5月11日の日記から
昨日もらってきた4Dエコーのチラシ、おなかのなかの赤ちゃんに会えます!と書いてあるけど、見ることって会うことなのかな…?と不明な気持ちになる。
会うことって見ることなのかな。

5000円かかるし絶対必要ないからやらないけどお戯れに、と思って取ってきたチラシたけど、「こんな機会ないんだからやっておきな」とIが言っていて意外だった。それでちょっとやってもいいかなあという気持ちにはなっている。

手紙の返事が来ないことについて、昨日から不安になってきている。
このままだと10月からの展示では会えなさについて作品を作ることになりそう。
でもそれが同じ場所という話?
それって、始まる前に考えていたところから、進めているのか?
ここまで、いろんな事はあった。
多分、とどくでのやりとりがあったから考えている部分と、既に考えていたから、そもそもろうの方々と手紙をやりとりしたいと思ったという部分とが混ざっているから、何がどうということを言い切れないんだけど、ここ一年くらいの制作において、このプロジェクトの影響は拭えない。
TOKAS本郷で空気の震えとして現れて消える音声について扱っていたり、VOCA展でそれぞれの見る人の体が持つそれぞれの方法でだけ演奏できる楽器みたいな絵をすごく意識的に描いたりしたのは、このプロジェクトと切り離すことはできないんだろうと、後から感じている。
それでいて10月の展示どうしよう~。

パーマかけた。

お腹にクリーム塗りながら、経皮吸収について思いを馳せる。これが染み込んでも平気なような成分です、とこの商品は謳っているけど、そんなの何が染み込んでも大したことじゃないんじゃないかって気分の反面、このお腹の皮と中身が全然隔絶したものだというのも無理があるな。こんなちょっとの距離で皮膚を隔ててるだけでお腹の外側のものがお腹の中に染み込まないわけないっていうか…と、新しい自分の身体認識が生まれる瞬間があった。
こうしてる今もわたしの意思とは別に動き回っている。知らない人。すごい動きまわり。たのしいの?


5月12日の日記から
みかん(去年死んだ実家の飼い犬)に会いたいと思って泣きながら起きる。
相手がおじいちゃんとかなら、まだ、物理的に会えていない間もわたしのことを何か認識してくれていたという感覚がなくはないけど、相手が動物だと、こっちがいくら思っていても、目の前に思い浮かべていても、その距離が隔てるものは大きすぎて、自分のことをみかんは思っただろうか、見つめ返されただろうかという疑問が消えない、会えなかったというしかない。コロナ禍で帰ってはいけなかった時間が取り返せない。
先々週、自分がこの年末年始に作ってYちゃんが翻訳してくれた映像作品「心と体」を久しぶりに見て、

扱っている内容として認識していたIちゃんの脳みそのことよりも友達の体のことよりも子供ができたことよりも自分の体のことよりも、制作の出発はみかんが死んだことについてだったと思いだして自分の作品見て泣いたけれど、やっぱり、解決できていないし一生できないかもしれない。
見つめ返されないことが、会えなさだと思う。そうなんだとわかった。
だとしたら、4Dエコーで赤ちゃん見たからと言って会えるとはやっぱ言えないんじゃないかしら。

小川さんに犬のこと聞かれて、「でも去年死んじゃったんです」って言った時にいろんなものを包みすぎてサラッとしか言えなかったことの中身が、湧いてきて泣いていた。

他にいない犬。

Iに「みかんに会いたいよ~」と言ったら
「俺もみかんが1番好きな犬だよ」と言っていたのでまた泣けてこめかみに涙が筋になってずっと流れていた。
朝5時半のはなし。

「死んだら会えるとかありますかね?」とわかっているのに聞いて、「ないよ」と言われた。
(そもそも私はもはや虹の橋に行ったら死んだ飼い犬に会えるっていうよく聞く話はなぜかめちゃめちゃ嫌いで聞いた瞬間にキレてしまう。)
でも、この不可能性の中に私の制作するしか方法がない心がある、とも久しぶりに実感もする。

批評会の時、亡くなった友達についての作品を作った説明をしながら泣いてしまった生徒さんに、私も今朝泣いてさ~ってその話をしようかと思ったけど、私にとっての犬の話の切実さを私が音声言語で伝えられるかというと多分難しくてやめる。話すのが下手すぎるから、大事な話をすることを躊躇ってしまった。

プランを考えるという名目でお客さんとしてオンゴーイングに寄って、ちょっと相談させてもらって、そのあと結局置いてあった進撃の巨人読んだりしてダラダラしていた。


5月13日の日記から
帰り道に小川さんから、とどくの手紙来ました、と連絡が来る。
ずっと心配してたから嬉しい。

1ヶ月以内に続けて2回手紙を送っちゃった人からかと思ったけど、そうではなかったので意外だった。嬉しかった。

嬉しかったと同時に、心配にもなった。なぜなら続けて2回手紙を送っちゃった人に送った1回目の手紙には、恋バナを教えてと言われたことに対する返事で書いた恋バナ内容があって、それはもちろん真剣ではあるが私の恋バナというものはどこを切り取っても大変しょうもないというか、誰の恋バナだってある意味そうだと思うんだけど、なので、それでもう呆れられていたらどうしようか…と、心配で気が遠くなったりもしている。だから2回目の手紙をサクッと送ってしまったというのもある。(あと、妊娠報告を世間一般にしていい時期に差し掛かったから伝えておこう!と思ったのもあったけど。)
恋バナというものは面と向かってするっきゃないものなのかもしれない。
でも、面と向かってうまく話せない時だって、
ある !
っていうか私は大体そう…。


5月22日の日記から
最近、本当はこんな何につながる予定もないことをやってはいけない、他にやらねばならないことがありすぎると思いながらも夢中になってしまっている陶芸のことが、自分が手紙という二次元のやりとりを通じて考えていることと急につながって10月の展示のプランがばばばと書けた。
それまで書けなくていろんな方々に申し訳なかった…。

プラン書いたそのままの勢いで制作しに行って、自分のバイトの送別会に向かう。
乾燥と時間と戦って、遅刻してしまった。
人が多くてとても嬉しいけど、自分の声が誰にも聞こえなくて、相手の声も聞こえなくって、ちょっとだけ参った。

E君と喋ってて「ネタバレじゃないですけど、今はるかさんの体の質量が実際に変わるって事が起きてきている事が影響して、10月の展示では、質量があるものが出てきそう」って、自分の展示のネタバレを人からされる謎の出来事があって笑えた。それってネタバレ?予言?


5月24日の日記から
小川さんからとどくの手紙が届いたと連絡をもらって、陶芸帰り道にオンゴーイングで受け取る。
しょうもな恋バナ書いちゃって心配していたHちゃんからの手紙で、ほっとする気持ち。感謝。
いろんなこと書いてくれていてその内容をここにただ書いていいとは思えないから書かないけど、これは書いていいだろうと思って書く、
”VOCA展に足を運んでくれて私が描いた絵を見て「さいとうさんって実在したんだ」と思った”
という話が、私がHちゃんのダンスを見に行った時の心と重なる感じがした。

手紙が届くまでの時間のことを思う。
みんな忙しそう。
私も4月はなんだか忙しかった。(もっと忙しい人は世界に沢山いるけど)
今は忙しくなくなってきてそういう日々が一週間くらい経ったら、
帰り道バスじゃなくて歩いて帰るか〜って感じのことを選べる余裕みたいなのが出てきて、
その帰り道のまっすぐ続く路地の雰囲気に「あ…今なんか…この感じ…」と高校時代を思い出したAさんから会ったことのない高校生の時のAさんの青春としか言いようのない話を聞いたりすることが目の前の風景と混ざりながら、また別のひとつのリアリティをこの体にもたらす。そういうふうに脳みそが働いてきてそれが忙しいって感じで、嬉しい。


5月26日の日記から
【夢の中で芸大を受験してて、国語のテストで文章題をバンバン解く途中に思い出したものを3つ絵に描く課題でいちごのパック描いてたら楽しくてすごい時間かかっちゃって、近くで談笑してたCさんが「大丈夫?」って半分笑いながら見にきてくれた時は終了3分前で、半分笑いながらが優しさに見える人だと思った。そして1項目分、問題をすっ飛ばしてくやしかった、平気でボールペンで全ての回答を書いていた。テスト用紙の最後にはお米が当たるみずほ銀行のキャンペーンと5g分のお米パックがくっついていたけれどもちろん応募せず、でも5gのお米は剥がして握った、描いてたいちごの種類はさがほのか】
だったのでそうtwitterに書いて、
夢の中で絵描いてるの、描き方面白かったなと思う。さがほのかのパッケージの字の抜き方と透明容器といちごの関係をペンで描いていて、その時参考にしているのは現実のサミットで見た並んでいるいちごの記憶だった。

それで窓の方を見て
カーテンの隙間に見える青空だと思ったら夫が昨夜干した水色の職場エプロンでちぇ
と思って
【カーテンの隙間に見える青空だと思ったら夫が昨夜干した水色の職場エプロンでちぇ(超字余り)】
とtwitterに書いた。

今家が花だらけで、これを書いてる机の上にも花があって、その産毛が、質が、変化していっていることが、今しかお互いに同じコンディションでは現れない、今だけ感じられるものとして感じやすくて、それが私が最近リアリティという言葉にこめている感じっぽい。リアリティに癒されもするし勇気もでる、と思う。
リアリティは、変化を怯えじゃない方向に持っていてくれる。
だから人は変化の時花を贈るのか〜と、花責めというほどの状況に遭って、はじめてここまで感触としてわかった。

【文・画像提供:齋藤春佳】

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