齋藤春佳11【絵を描いてる時間の方が、生きている時間より長い。】

「とどく」齋藤春佳

2021年11月4日の日記から

アトリエでVOCAに出すデカい絵を描いていたら人があがってくる気配がしておびえて振り向いたら、大木さんで嬉しかった。指入湯に来てみたんだけど今日は休みだった、けど扉は開いてたから入ってみたらしい。

なんか大木さんはこの前とどくでやりとりしてる先の窓口の方たちと会えて、鍋とか、なんかすごいやっぱよかった…進みが…とか言っていたり、私は今はこの絵でいっぱいでとどくのこと全然止めちゃってる…と言って胸がぎゅっとしたり、
私が大きい絵を描いてることについて、
「いいじゃない くるしみなさい〜」
って言われたのがその時は大笑い、わらえたが、あとあと心に灯って燃えながらガンガンに描いた。

2021年11月16日の日記から

絵を描くことでボロボロになりすぎて、どうしてこんなことをここまでして、しているんだろうというきもちと、楽しくて続けたい気持ちを行き来している、楽しくて続けたい気持ちは柴田聡子の「雑感」の「私には私にしかわからないことがあるんです」がプラスチックの下敷きを背中に入れたみたいに支えてくる。


2021年11月17日の日記から

保坂和志さんと山下澄人さんのトーク聴きながら、ここで話されている「書いたら書けた」みたいなことが、この場所では描いたら描けたみたいな感じで起きていいんだと思いながら描く。

みかん(飼い犬)が死んだこととか時間の仕組みを変えることとかっていう自分の制作を説明する上での動機だと自分が思っている願いと、描く行為それ自体によって起きていることが、描きながらバンバンはなれてってるきもするけどこっちのルートで結局たどりつくみたいなことあるんじゃないかな、となんとなく思える。
だって言葉で考えてるだけのところだと、たどりつけないっちゃそうだもの。

夜Iがじいちゃんについての文をかいてた。なんか独特のトーンの、クールなわけでもないし心にしっかり触るわけでもない文章でおもしろかった。その人にはその人にしかできない感じがやっぱあるのが、いいな、と感じながら読んだ。


2021年11月18日の日記から

デカい絵に書きこんでる言葉のありかたについて
できるだけ意味ない、価値にならない、逆にトラウマにもならない、忘れていい内容の、耳から聞いた発語で記憶に残ってる言葉を書いてる。
なんか得した気分になる音声?
なんか、人生を大きく動かすようには思えないような会話
音声を字にしてる 
そのままそれが線になって、絵になったりもして

「おれくりすきなんだよね、栗って味がいいんだよ」

とか

そういう
言葉の風
声の息
息の音
今しか再生されない、消えたもの

それを書いておいたり、描ききらないけど描いておくと読むのは
再生デバイスとしての人
再生デバイスを待つカセットテープ の 絵

読まないと現れない言葉

見ないと現れない像

覚えておく必要が一切ないものを 描く 書く


2021年11月19日の日記から

「ありがとね〜おつきあいくださって」

「ひかりのなかでねてしまってた」
「すげえじゃん」

2021年11月20日の日記から

朝から描いてたら右目の右下側に目の形の切り紙みたいな灰色部分が現れて視界が欠けちゃった。しばらく目を使わないでいたら1時間くらいで治った。

公園でお昼食べながら、葉っぱが落ちたりスケボーの練習をしたり隣に柴犬が座ってるのを眺めていた。面白かった。例えばこの公園のあの区画のことだけを一定の期間観察し続けて描きました、みたいに説明と制作をしたらここにある時間を表すみたいなことをはっきり表現することができそうだけど、自分がいまいち表現をそういう方向へくっきりさせようとしないのは、私は私の生きてる時間を、伝えるための表現の形にあてがいたくないんだと、ふとわかった。
自分の人生の時間をそういう意味で表現にあてがうつもりがさらさらないっぽい。
伝える気がない、ということではなくて、伝えるための選択や行為が制作になるならば既にその伝わり方は世界のどこかにはもうあって伝わっているくらいのことだと思っていて、そうではなくて、制作の時間を通して生きようとしている時間がある。
というと整理されすぎて遠くなった気もする。
自分の人生の時間をある意味での表現にあてがうつもりがさらさらない。
なんか過激なこと考えてるんだな〜とびっくりした。

発声の風によって揺れるカーテンと窓の絵を描いているけど、
それって
マスクとメガネの絵では?と踏切で思う。


2021年11月30日の日記から

絵を描いてる時間の方が、生きている時間より長い。
それによって高まっている色々のせいか、朝iPhoneの目覚ましの音が色で見えた。なにごとかとびっくりして起きる。

やっぱいわゆる共感覚ってやつは誰かだけに特別あるようなものじゃないんじゃないか。私みたいな凡人含めて全員が持っていて、多少の訓練みたいな感覚の練り上げと、自分のことを特別な存在だと思い込む力によって世界にあるんじゃないか、などと思いながらトースト焼く。


2021年12月21日の日記から

手紙郵送先になってるOngoingに田中くんが手紙を取りに来る。最近めちゃめちゃ田中くん宛の手紙が届く感じがある。
着いて早々、私の絵がVOCAでなんにも賞に引っかからなかったことを思いの外すごい残念がってくれる。というかそれについて初めて人と面と向かって話したからもはやちょっと涙ぐんでしまって申し訳なくて横を向いた。

「でもM-1グランプリでも錦鯉だけが注目されていくわけじゃないから」
と軽い冗談として言ったら、私の浅いM-1の認識と彼のM-1というかお笑いに対する認識にぜんぜん違いがあってその言葉が思った方向にそんなに機能しなかった、アハハで終わらなかった感じで、だから伝わったけど伝わらなかったとも言えて、なんか普通にM-1の話を色んな角度からしっかり聞いて、それは面白かった。

ここで話しているデカい絵のタイトルは「描かれた川がカセットテープA面の巻き戻し方向に流れる時にB面で再生されている空気の震えでカーテンが膨らむ(カーテンが膨らまなければ私たちはその風には気づかない)」

《描かれた川がカセットテープA面の巻き戻し方向に流れる時にB面で再生されている空気の震えでカーテンが膨らむ(カーテンが膨らまなければ私たちはその風には気付かない)》

【文・画像提供:齋藤春佳】


注 「VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─」 2022年3月11日(金) 〜 3月30日(水) 上野の森美術館

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