齋藤春佳26【とどく展/壁に描くことになるとは思ってなかった】

「とどく」齋藤春佳

2022年12月6日の日記から

行けるような気がして渋谷へ。
夫と子も来てくれる。

行けるような気がして前日大木さんに電話して、四時頃?みたいな話で、別に大木さんを待たなくてもいいんだけど、やっと全部のイベントが終わって、会場がなんかなれてきて(熟鮓とかの「なれ」のイメージ)、それで大木さんの作品をじっくり見る機会もそんなになかったから、しばらく見ていた。


「はるかと 日焼けしたって言う

アートの夢

9月22日
14時のアラームが鳴って目覚めた」

みたいなこと大木さんが映像の中で言っていて
また別の時

「あいされなかったこと?」
という音声が聞こえてきた瞬間と、別の画面で
「あ い」
「す キ」

と出てきた瞬間が重なって
ぐっときた。


たくさんの言葉、つまり輪郭、フレーズがぼかされている、ある意味キャッチーなところ、つまり伝わる大きなモチーフは隠されている。隠されきってないけれど、大きなモチーフは、映像の中で少し、隠されている。
後々語ることができる輪郭としての言葉は隠されている。
ある意味社会的な言葉は隠されている。


あとから
あの作品でこういう部分があってこうだった、と他の場所で語り直すことができる、作品の中にある輪郭というものはあって、

語り直すことができない、
その作品を見ている時にしか経験できないことはあって、

私は、その語り直せないもの、語り直すともうその時にはその語り自体ができごとになってしまうから語り直せない部分、それが作品というものの作品である所以だと思ってたんだったかも、と、日焼けの言葉につれられて、日焼け派 https://poolhiyake.wixsite.com/website のことを思い出していた。

輪郭を伝えるだけでいいのならば、
私たちは作品という手段を取らず、
別の方法で世界に直接的にアプローチすればそのほうがいい。
と私は態度として思う。


大木さんが来て映像の音量をめちゃめちゃ上げた。
爆音

自分の作品がたくさんあるゾーンをその爆音の中で眺めてみて、大内さんが、大丈夫かな?という雰囲気を出してくれているきがしたので、「私はこういう時もあってもいいかも、あと耳が聞こえなかったらうるさいとおもわないのとか…」と、何かを決め動かすことにならない意見を言う。

音量は
空間に
圧みたいなものをつくっていたんだと勝手に理解する。

色々あったが
交互に切ったり描いたりしたボードが田中さんの作品の近くにバンと貼られたりの
大木さんとのやりとりの中で描けるように体がなる下地みたいな物や行為が、幾重か積もって、
必要だと思って、
ついに私も壁に絵を描いた。
壁に挟まれたこの空間を
表面と表面の間であると指し示すようなきもちの、身体に伴う長さの線
その線の横と横をまた二次元の中で図と地に分けたりも、しながら。

いいじゃんのびのびしてて、
と言われて
その気になった。



2022年12月14日の日記から
昨日、展示室の壁にKさんにあてて手紙を書いたんだけど、それを撮影し忘れていて、竹野さんに写メで送ってもらって、その前後に手紙を書き足して、急いで出した。



2022年12月16日の日記から


「おむつかえさせてください
おしめともいう。おしめはしめっぽいから?
じゃあおむつってなに?
おむつとおつむって似ているね
なんでだろう?
頭がおつむで
お尻がおむつ
つ も む も、字の形がつつむっぽいかたちだからかな
というか、
そもそもつつむってことばが
つ と むでできてるじゃん」

とか、子に話しながら発見した。

2人きりで散歩している時とかの子との振る舞いみたいなのの正解を知らなくて、子がいるのをいいことに普段頭の中だけで考えてることをめちゃめちゃ口に出して伝えていて、それは自分にとってはかなり楽しいんだけど、ご迷惑だろうか。でも、子が私の知らない言語でめちゃめちゃ話してくるターンもあるから、お互い様と言えるだろうか。私が赤ちゃん語わかるようになったらすごいな。

昨日子を抱っこして壁に絵を描いていた時に広報の浅野さんが撮ってくれていた写真が渋谷公園通りのSNSに載ったのを見て、それで夜にこう書いた。
___

絵の黄色と呼応する赤ちゃんの靴下ちゃん


胸というものすごい近さに他者がいること、それでいて、それですらその眠りの中身、瞼の中を知ることができないことをこの絵を見ながら思っていた時のお写真だと思う


そして、ただ立っている身体では見られないようにしたいというのが今回の展示ではそもそもあって、それをもっと強めたくある、ただのほどよいバランスに見えないようにしたくある、渋谷という街からこの空間に入ってきた時にスッと作品に入るためにはなにか、もう一歩必要ななにかがあると思って、それが3人の展覧会全体に響くことだと勝手に信じていて、子に付き合ってもらって渋谷に来ていてすまん!今日はゆっくりしようね、というのは置いておいて、
つまりそれは、妊婦の時だったら絶対見づらい位置なんだけど、子供には見やすかったり、背のとても高い人には見やすい作品や、車椅子の方が見やすい作品、そして全ての人にとってその逆が、できるだけあるようにしたい、ちょうどピッタリとんとんは難しいけれど


全容を把握できる人が、”等しくいない”かたちにしたいというきもちがあった
それはいじわるちゃんじゃなくて
普通とされる公共の場所にバリアフリーの箇所がちょこっとあるんじゃなくしたい、それを、均したいみたいなこころ

【文・画像提供:齋藤春佳】

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