齋藤春佳19 【お互いに不便なスペース】

「とどく」齋藤春佳

2022年7月7日の日記から

Iが朝からシェントウジャン作ってくれる。

育てているほしちゃん(ディフェンバキア/スターブライト)の新芽が折れてることに水やりの際に気づいて、
「新芽が折れてる…」と言う。

「折れてるね」と言われて、
「折れてる…」と言う。

「洗濯取り込みの時折れたのかも」と言われて、
「そうかもね…」と言う。

「すみません。」と言われて、
「いいよ、ごめんなさいと言われるまでは許さなかったけど言われたからいいよ。」と言う。


言葉での会話というものが世界にあってよかった。
なかったら、この時もっとかなり困ったことになったと思う。


———


午前のうちに、
指文字でさらに3人に手紙書く。ということとして動画を撮る。
Youtubeの限定公開の動画にする。その人しか見られない状態。
それをQRコードにして郵便で発送する。
しばらくお返事が来ていない3人。
Iさんと合わせて4人。
とどくだろうか、とどいてないかもしれない、お返事がこないかもしれない
見つめ返されないかもしれない。
その具合と指文字が、
何か、いいかと思っている。


言い淀みや間違いが、きっと、読みづらいだろう。
読めない可能性すらある。
共通理解じゃないところに自分の言葉を放り込む感覚がある。


私から放つ指文字は、
一見、文字の手紙よりも、もう一歩、ろうの方の言語理解の方に踏み込んでいるようでいて、
それが読み取りづらい(私の下手さと、手話じゃなくて指文字であるから)と言う点で、
ろうの方にネイティブな場所から出て歩み寄ってもらわないと読み取れない状況になっている気がする。おそらく。
自分の経験に照らし合わせると、日本語ネイティブ話者じゃない人が話す日本語を聞く時の感じ
さらに、50音の表を1文字ずつ指さされるのを追って読む、みたいな感じなんじゃないか、と予測する。


見当外れかもしれないけれど、
この関係における指文字が、私側とろうの方側との中間地点にもしかしたらなるかもという期待が少しある。
互いの場所から一歩、相手側に踏み入れる。
そこはお互いに不便なスペースかもしれない。
そんなところに踏み込む必要もないのかもしれない。
それがどういうスペースかは、居るのに、わかっていない。


そもそも、手話の便利さがある。
手話は1文字1文字じゃなくて、もっとダイレクトに何か伝わるものになってる。
手話はむしろ、その体系を知らなくてもほんの少しなら喋れるかもしれない。ダンスみたいに。
逆に指文字はその体系をしらないと、全く分からない。
手話の方が歌みたい。
メロディみたい。


小川洋子さんと岡ノ谷一夫 の本「言葉の誕生を科学する」で昔読んだ、言葉の歌声起源説に想い及ぶ。
言葉は何かを示す単語の連なりが進歩して生まれたのではなくて、
状況や合図の歌声、メロディによってコミュニケーションが生まれて、そこからこのメロディはこの合図だってことがわかるようになって、だんだんそれが複雑になって
って今の言葉が生まれた説。

手話は歌声側だと思う。

指文字はモールス信号みたいなイメージ。
星の点滅みたいなイメージ。

でもそれだけが伝えられるものもあると思っている。
多分。
そもそも伝えることと伝わることの確かじゃなさみたいなところに自分の作品制作の要点があるから、いまこういうことやっているのかしら、私。

——-

暑い。
歩いていて、
ひまわりの茎がニューッとブロック塀の下の方に空いた穴から道のこっち側に伸びてブロック塀の背を越しているのが3本あって、わーと思って写真を撮ろうという気持ち、よくみたら塀の向こうにそのお宅のおじさんの頭が動いているのが見えたからやめた。

ギザギザの葉っぱ。目が投げかけて反射する形。

2人乗りの自転車の後ろに座った女の子が前の男の子のお腹をTシャツをめくってあらわにしながら触っていて、風を当ててあげている親切と触りたい欲望の熱その両方があったとして、それでもやっぱり見てて暑苦しくはあった。暑いから。

仕事昼休みのIと落ち合って、ピワンの白胡麻キーマカレーとチキンカレーのあいがけ食べる。
白胡麻のスパイス感が優しく美味しい。ぷちぷちする。
私ナンプラーとか魚介系の感じはむしろちょっと負ける時もあって今その感じもあるから、嬉しい味だった。
おなかぽんぽん。

そのあと陶芸をやりに行って21時。
気張りすぎて赤ちゃんごめんという気持ち、でもやるしかない。夜、ゆる〜と横たわる。

【文・画像提供:齋藤春佳】

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