齋藤春佳18 【現実と作品、どっちが源か】

「とどく」齋藤春佳

2022年7月6日の日記から

朝Yちゃんから
「英語だと会うはseeだし
中国語だと会うは見(ji(a) n ジェン)だし」ってLINEがくる。
seeは分かるもある。
見る、会う、分かる。

見つめ返されないことが会えなさならば、
Iさんに手紙として送った指文字動画の再生回数が、今のところ一回も増えてない状況は、会えなさなんだろうなとも思う。

かと言って
会えなくても投げかけ続けることは無じゃない。

いつか会えるからという期待とも違う。

会えないままでも、というような。


11時半にクラクラして、11時40分にアラームかけたら、すごく遠くに行った瞬間があって、朝起きた時みたいな気分、どこにいるのかわからない気分になった。
Hちゃんへの手紙にも書いたけれど、最近こういう日中の寝起きが多い。

書いたか?

送っちゃって手元にないのと、(データは残してるから確かめられるんだけど)
書いた手紙を作品に登場させるだけじゃなくて、
手紙を作品の中に先に書いて、そこから手紙を書いたりしている。
現実のアーカイブとして作品があるんじゃなくて、
逆転
作品側にあるものが、現実に出てくるみたいなことが、
この最近の制作を通して、初めて起こってきて、
それは陶芸の形とかもそう。
絵にあるものが陶芸の形として出てくる。

本当はそんなことはしない方がいいのかもしれなくて
なぜならかなり頭が混乱してくるから。
現実と作品、どっちが源か、わからなくなる。
でも、本当に作品側が源になったりするから。
現実の重さみたいなのがふっと、バランスが変わりそうになる。
手紙の中だけでしかやりとりしていないということも、それに作用している気がする。
ちょっとこわい。

でも、本来、現実の重さは、そのくらいのものだとも言える。
私たちが現実だと思っている現実は、
さしあたって最有力なフィクション
というのは本当にそう、本当にそうだと思う。

“現実とは「本当のこと」ではない。それは現時点においてはさしあたって最有力なフィクションである、というにすぎない。そしてフィクションというのはただの「嘘
ではないし「つくりごと」ではない。それは、潜性的な現実なのだ。だから強いフィクションは、現実をおびやかす。”
岡田利規「遡行」変形していくための演劇論  河出書房新社 p.28 より



これをぼんやり思い出して、「本当にそう」と書いていた。

現実がフィクションくらい軽い、というよりも、
この社会を生きる人にとってフィクションが、すごく作用する、作用している、実際的であるってことだと思う。

工芸室で陶芸。
最初ちょっと集中できなくて、別の皿とかに絵付けしてたら変になって反省した。でも、一応でかいの1個できた。
できたと言っても、焼けていないから、できてない。
どうなるかわからない。

手紙で言うと、この時点は手紙が書けた、
窯入れが投函した、くらいの感じ。
逆に言うと、作品で言うお返事が来た、の段階は、なんなんだろうか。あるのかな。
制作がのってきて、集中が増してきて、そしたら妊娠してない瞬間があった。
それは、その瞬間は、本当にそうだった。
お腹の中からボコボコ蹴られて、あら、と思う。
なんでお腹でかいんだろう、とひとごとのようなきもち。でも嬉しいんだよ〜と夜お腹をかわいがる。

【文・画像提供:齋藤春佳】

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