6月14日の日記から
昼は軽くと思ってフルグラとヨーグルトとブルーベリーと、それと枝豆っていう不思議なお昼ご飯になった。2時間後コメダで手紙を書く前に測った血糖値が95でそりゃそうだと思うのと、よかったと思うの半々。
ご飯食べた後、キャンバスを張り始めたら早々にタッカーの針が無くなって、オザキに買いに行って、その後そのまま歩いてコメダまで行った。
ただただまっすぐで排気ガスがたくさんで全然愉快な道ではないけど、到着するまでに音楽を5曲聴いて、それはよかった。踊ってばかりの国のorion、カネコアヤノの爛漫、ラッキーオールドサンのなにか、踊ってばかりの国の渋谷のPVのやつ。それからそのあと流れてきた音によって、急に肌に触れる風の感じ方が鋭敏になって、え?なにこの曲…ザワ…と思ったらはっぴいえんどの春らんまんという曲だった。ちょっとはっぴいえんど凄すぎるかもしれない。
練馬区から西東京市に切り替わったところから生えていた街路樹の花もしっとりと雨に濡れていて良かった。そのことも手紙に書いた。
サクッと10分くらいで書こうと思ってた手紙のお返事、1時間半かかってしまう。なんでだろう。1枚で終わらせようと思っていたのに7枚書いた。こんなのなかなかお返事来ないかも。
好きな音楽を尋ねられていたことへのお返事として色々書いたけど、その書く時、全然相手の耳が聞こえないということを深く考えずに書いていた。あとから気づいた。
なんとなく、ろうの方は、音楽を好きだというときに、
ビジュアルも含めて表現としているということをしっかりと前提としてパフォーマンスが行われてる歌手やグループを好きだと書いてる人が多い気がする。perfumeとか。
バンドが好きって書いている人はあまりいないかも。(私はたった6人のことしか、しかも手紙の返事分しか知らないから確かじゃないけど。)
でも、私だって、好きな音楽をビジュアルを一切抜きにして楽しんでいるだろうか。
家に着く直前に思った。
音楽を聴くときに、聴覚以外の場所を一切働かせていないとかと言ったら、実はそんなことないんじゃないか。
それはそのアーティストのビジュアルもだし、
その曲を聴きながら歩いていた時の風景、
それと、そこまで具体的にならないけれど、
頭の中に流れる音にくっついてくる何か風景じみた、”感じ”としか言えないもの。
自分や生活や学校がどんなに嫌いでも、
音楽から「その“感じ”としか言えないものを感じられること自体」が、
自分が自分であることをかろうじて肯定するものとしてあって、
自分や生活や学校がどんなに嫌でも、なんとかそれで大丈夫だった中学生の頃のことを思い出した。
それを私は当時、聴覚を使っておこなっていたけれど、聴覚だけを使っていたわけではなかった。
きっと誰だってそう。
耳から入る音を感知する聴覚だけを使って音楽を聴いているわけではない。
誰だってそうで、
それでいて、
どんなに同じ音楽を聴いても、同じように聞こえる人はいない。
同じ絵を見ても、同じ文字を読んでも、同じ種類の花を見ても、同じものは見えない。
それは、さみしいことのように思われるけど、
どんな状態でも、その”感じ”を感じることができる人は自分しかいない。
それは当人が生きていることで現れる世界を、生きていることを肯定してくれることだと思う。
【文:齋藤春佳】