山羊は手紙を待ちながら、待たれながら。

「とどく」田中義樹

「二通目」

前に書いた文章で返事が来てないと書きましたが、今も来てはいないのです。手紙をくる日もくる日も待つ昔の人たちの気持ちを追体験するような気持ちでいます。じゃあ返事は来ないけど、もう一つ手紙を書いて送ってみようと思いさっき書き上げました。昔の人は、手紙の返事が来ないと、続けて何通も送ることは当たり前だったそうです。この間、寺山修司のパートナーだった九條今日子さんのエッセイを読んでたのですが、寺山から五通くらい続けて手紙が来たみたいなことを書いてありました。結びには早く返事をくれみたいなことを書いてあったりしたそうです。ちょっと彼のイメージ変わりますね。

サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」と言う戯曲をご存知でしょうか?有名な不条理劇です。不条理演劇の金字塔とすら呼ばれています。あらすじを書くと、ウラジミールとエストラゴンと言う二人の男が、木の下でゴドーと言う男が来るのを待ちながら、ずっと他愛のない会話をしてるだけの話です。第2幕でも同じようなことをして待つのですが、ずっとゴドーは来ない。おそらく二人は明日も、明後日もその後も来ないゴドーを待つんだろうなあと言うことを観客に匂わせて終わりの劇です。ゴドーの正体はわかりません。
最近改めて読んだのですが、自分が何かを待っていると、急に自分に寄せて読めてしまうもので、訳もわからずパラパラと読んだ昔よりなんだか面白いと思えました。相変わらず訳のわからない話なんですけど。
最近ドキュメンタリー映画の「柄本家のゴドー」を見ました。その中で、劇団東京乾電池の柄本明さんが若い時、演劇をやるならばベケットを読まなければと全集を買って全部読んだけれど、何にもわからなかった。けどある時ゴドーをやるために読んだら、わかったと。わからないことがわかった。これは当たり前の話で、誰にでもある話なんだとわかったと話していました。わかった時、彼はゴドーを読みながら泣いたそうです。自分は劇をほんのひとかけ囓っただけで、柄本明さんなんかと比べたら何にもわかってないだろうけど、手紙を待ちながらそれを見ている時、その感覚がわかるような気がしたんです。

3日前くらいにこのブログのタイトルを決めることになりました。最初に手紙を食べる山羊の置物を二人に送ったことだし、山羊って言葉を入れたいな。そういや山羊は英語でゴートだな。ゴドーみたいだ。ゴドーを待ちながらが僕たちの話だとすると、待ってたり、待たれたりする僕らもウラジミールとエストラゴンかもしれないし、誰かに希望を与えるゴドーかもしれない。ゴドーはやってこないGOD(神)のメタファーだと言うのが通説です。ゴドーにはなれないかもだけど、ゴートくらいならちょうどいいかも。神じゃなくて手紙を待ってるんだなあ、山羊だから。と言うわけで「山羊は手紙を待ちながら、待たれながら。」と言うタイトルを考えました。このレター/アート/プロジェクト「とどく」は最後に成果展があるのですが、ベケットをそのまま公演してもいいかもな、なんて思ったのは手紙を待っている時間のことです。そのままやらないまでもモチーフにしてみてもいいかなと。待ってる間ベケット読んで、泣いたりしてしまうような感覚をちゃんと見てみたいし。

手紙のことで思い出してしまった。三重県にいた時の書道の先生から年賀状をもらっていたけど、何も返していない。もう年賀状っていう季節でもないから、手紙でも送ってみようかしら。自分は待っている側かと思ったら、やっぱり待たせている側でもあった。待っているのに忙しくて、待たせていてしまった。やはり誰にでもある話だ。

【文・画像提供:田中義樹 2021年4月21日】


注 「柄本家のゴドー」(2019年のドキュメンタリー映画、山崎裕監督)

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