(田中)展覧会「語りの複数性」で《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》を展示させて頂きたいと思ったのは、ろう者と聴者の間のコミュニケーションと言うと、焦点が聞こえるかどうかにあるように思いがちですが、そうではなく、コミュニケーションというものはそもそもああいった側面を持っていて、百瀬さんも度々言及されているコミュニケーションの「複層性」がとてもよく表されていると感じるからです。少し前の作品にはなるのですが、お願いしたという経緯があります。2013年ですよね。
《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》
2013 / シングルチャンネルビデオ / 25min 30sec
(百瀬)そうですね。これはもともと自分の大学院の修了制作として作られた作品です。学生だからこその、体当たりで飛び込んでいく大胆さみたいなものも多分にそこにはあって、今のわたしでは絶対に作れないだろうなという感慨を抱いたりします。現在の社会における、いろんな整備が意識される以前に作られた作品だったのかなという感じもあって。「やってみてから考える」みたいなことがまだゆるく許容されていたような、そういう時代の空気感もあった気がします。
(田中)オリパラが決まり、それに関連した文化プログラムが盛んになって以降、いわゆる情報保障だったり、障害のある人の表現活動が盛んに取り上げられるようになってきたと思うのですが、制作当時は一般的なアート業界でああいった作品に取り組む人はあまりいなかったと思います。その中でどういった経緯で作られたのか伺えますか。
(百瀬)もともとこの作品を作る前に木下さんと個人的に知り合う機会があって、わたしが大学院在学中の2012年に新宿眼科画廊というところを借りて個展をしたんですけど、その時にお客さんとして来てくださっていたのが木下さんだったんですね。その時は直接は会えず、芳名帳に名前を書いていただいたんですけど、その後で彼がろう者だということがわかって。そこで初めて自分が、自分の作品が映像と音声が合わさって出力されたものであることを、今まで全く意識せずに作ってきた事実にハッと気付かされたんです。でも映画の歴史を振り返ってみれば、もともと映像と音声は別々に収録されていたものでもあったわけですよね。そもそも俳優の身体と、声は別々の場所にあり、物理的に切り離されていた。「動く唇」と、「声」をひとつの完全な身体として統合させるということが、すでにひとつのフィクションであるということかもしれませんし、私にとっては映像の原理自体を再び考えさせる出来事でもありました。木下さんと私は、この個展の中で、いったい何を共有できたんだろう?というところが全ての出発点だったんです。共有できるのかできないのか、あるいはじゃあどうやって共にいることが可能なのかという、そのこと自体、その場自体を現前させるような作品ができないだろうかと思って木下さんにアプローチをしたのが、初めの段階になりますね。
(田中)なるほど。その時は、「一緒に作品を作りませんか?」と声をかけられたんですか。
(百瀬)その前に、わたしが木下さんが『声を剥がす』という論文を寄稿されていた『共感覚の地平』(2012)という論文集を読ませていただいたんですね。そこで木下さんが書かれていた内容が、今回の作品ととても響き合うような感覚があって、木下さんに是非出演して欲しいと思ったんです。その依頼のプロセスがちょっと面白くて、面白いって言っていいのかわからないんですけど、まずわたしが直筆の手紙と一緒に、あの作品とまったく同じ構造のビデオレターを作って彼に送ったんですね。画面に自室にいるわたしだけが映し出されていて、唇を動かしながら、木下さんに向けて作品のコンセプトを説明しているんです。そして「実はこの字幕と、今実際にわたしが唇から出している声が同じだという保証はありません。わたしはまさにそのことを作品化したいと思っているんですが、もし木下さんがよろしければ協力していただくことは可能でしょうか。」といったような字幕が画面に流れているんですね。この作品は木下さんの同意なしでは作れないと思っていましたし、そのためには自分の真剣さを伝えるために誠実な依頼をしなければと感じていました。それがこの作品の構造自体を再現したビデオレターという形式だったんです。
そうしたら木下さんが、いろいろ熟考された末に、協力するということをおっしゃってくださって。幼少期に声のことでからかわれた記憶などもあり、自分の声を出すということに対して葛藤があったことは木下さんもご自身のブログで書かれています。だけれど木下さんは同時に、自分はアートの力を強く信じている、これはきっと面白くなるだろうからぜひやってみようとおっしゃってくださり、そこから制作が始まりました。
その中で一番印象的なエピソードがあって、木下さんがわたしにお願いした部分というのがあるんですね。映像の途中で、わたしの唇から出ている声と字幕がずれていく、唇の形が同じなんだけど違う音に変化していく瞬間があると思うんですけど、「どのタイミングでそれが変化するのかということは、わたしには伝えないでください」ということを、木下さん自身にお願いされたんですね。これを知り得ない、ということこそがこの作品の本質であるし、その方が面白くなるだろうからと。わたしも出来ればそれはわからない方がいいと思っていたし、その瞬間にいったいカメラがわたしたちをどのように捉えるのかを見たい、という欲望が何より強くありました。なので木下さんにそのお願いをいただけた時は、勇気をもらえたというか嬉しかったですね。
(田中)木下さんのブログからは、作品に関わることの葛藤が読み取れますが、決められたのは木下さんが持っている芸術への造詣や、百瀬さんへの信頼が大きかったように思います。言える範囲でいいのですが、作り方としては、映像の中で交わされたような会話を重ねていって、それを本番用に組み立てていかれたということですか。
(百瀬)まずは渋谷のカフェのテーブルに大きなスケッチブックを広げて、木下さんと「声」について話すという筆談をしたんですよね。その対話の中で紡ぎ出された木下さんの言葉はいじらずに、構成の順番を変えたりとかそういうことはしたんですけど、基本的に彼の言ったことをそのまま生かして台本を作っていきました。そうやって、かつて実際に行われた筆談での会話を、もう一度声で再演するという映像になっています。なので実際にあの映像で起こっていることというのは、ドキュメンタリーではなくてフィクションなんですよね。ただフィクションなんだけれども、そこで語られている木下さんの言葉は彼自身のものでもある。
《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》
2013 / シングルチャンネルビデオ / 25min 30sec
(田中)でも木下さんもかなりスムーズに話されていて、あれはすごい練習されたというか、何度も繰り返されてああいう円滑なやり取りが可能になったのですか。
(百瀬)彼自身がどういう練習を重ねられていたかっていうのはちょっと分からないんですけれど、本番の鮮度が落ちてしまうと思ってリハーサルはあまりしませんでした。実を言うと、カンペがカメラから見えないところにあるんですね。いずれにせよ木下さんに相当な負荷のかかる撮影だったことは間違いないと思います。彼の部屋の机を動かしてもらい、二人っきりでカメラを回して、色々な意味で大変な撮影でした。二人とも疲弊して、途中で一緒に家系ラーメンを食べに行ったんです(笑)。
ただわたしが、もしそういった批判がきたらそこは真剣に受け止めなきゃいけないなと思う部分は、実際にろう者がああいう場におかれたときには、普通はあんな突然スムーズにコミュニケーションは取れないということなんですよね。このフィクションを成立させる上で、そういうリアルではない、虚構のろう者の身体がそこにはあるんだろうと思っています。
(田中)なるほど。木下さんは普段手話で会話されますが、手話が使えない聴者との会話では、筆談や口話も使われますよね。ただ、口話に慣れているとは言っても、毎日一緒にいて相当な時間を重ねていけばああいったスムーズな対話もあり得るかもしれないですけれど、そうでない場合は、口型だけであのような込み入った話を円滑に行うのはなかなか難しいことでもありますよね。
(百瀬)そうですね。
(田中)公開した当時の反応は覚えてらっしゃいますか。
(百瀬)そうですね。修了制作の講評の時に怒る大学の先生は当然いましたし、やはりタブーを弄んでいる作品だというふうに、反射的な善悪の判断によってものを言われることは今よりもっと直接的にあったように思います。信頼する友人からも当時、怒りと、賛辞と、混乱が入り混じったような長文メールをもらったことがあって、今でもそれをたまに大切に読み返したりします。そして、そのように反応すること自体は、ある意味当然のことだとも思うんです。わたし自身にも当時、本当にこの作品を世に出して良いのだろうかという葛藤は何度もありましたから。でもそれはある種、何ていうんでしょうね。あの映像がいったい誰にとっての暴力なのかということを考えた時に、一番たぶん分かりやすい批判としては「障害者を馬鹿にしているのか」というような内容がおそらくあると思うんですね。しかしわたしは、唇の動きと音がずれた声を出すことが、ろう者を馬鹿にしたものに見える、という聴者の心情の中に、すでにある構造への加担が含まれているのではないかと思ったんです。そこにはすでに、声というものを「音声」優位主義的に捉えている価値観が入り込んでいるのではないかということです。声のうちの「音声」というあくまで一側面でもって、健常な身体とそうでないものを区分けするような、そういった無自覚な意識が入り込んでいるのではないかと。「手話をすると話せなくなるから」行われていた口話教育自体がまさにそれに根ざした思想だったわけで、あの序盤で語られる木下さんの回想エピソードがすでに布石になっているわけです。もっと声というものには、複雑で、一つに定義できないいろいろなかたちがあるのではないかと思ったんですね。
今までにこういう批判をしてきた人たちというのは、全員耳が聞こえる人たちだったんです。わたしは当初、ろう者当事者たちからの批判を覚悟していたのですが、ろう者の観客たちからは今まで直接そういう批判は受けたことはないんです。
どちらかというとわたしは、聴者たちを映像から疎外してやりたい、みたいなモチベーションがたぶん作ったときにはあって。そういう意味で、当時のわたしはむしろ耳の聞こえる観客に対して暴力的なことをしたんだと自分では思っています。
平成24年度 武蔵野美術大学卒業・修了制作展 展示風景
撮影:田中雄一郎
(田中)私もそう思います。あの作品の怖いところは、聴者の鑑賞者が木下さんに感情移入して、「聞こえない人を弄んでいる」と言う時、その人はいったいどのような立ち位置でそういった発言をするのか、すごく危うい。その意見にはろう者自身も多様で、コミュニケーション方法や声の認識も異なることは見過ごされています。聴者がそれを言う時、どちらかと言うと、木下さんと言うよりも、その人の中にある「声(音声)」の正しさが弄ばれ、さらにその声の変化が認識できない木下さんに向けて発されることにある倫理観に疑いの目を向けるのだと思います。前半の部分で木下さんの発話が聴者とは異なることを十分認識することによって、聴者である百瀬さんが音声を変容させることの後ろめたさを鑑賞者が勝手に引き受けて正義感に変えてしまう部分もあると思います。木下さんはそもそも聴者とは異なる「声」の概念を持っているということは映像の中でも触れられているのに、後半になるとすっかり忘れてしまうくらい聴者は衝撃を受ける。それくらい鑑賞者を巻き込む力のある作品だとも言えます。
実際にあの映像は、二人が台詞や流れを予め把握していたから可能だったとしても、あのようにコミュニケーションが成立している時、そこに第三者が割って入ってくるのは、変な平等主義があるからだと思うんですよね。個人の違い関係なく、同じものを与えることが「平等」であるという考え方は、日本特有のものだと思います。もちろん、日常生活で考えれば、木下さんにとって最も意思疎通がとりやすいのが口話でなければ、他の方法を使うべきです。ただ、やはりこれは作品として、聴者が無自覚に持っている音声優位主義を問うために、手話通訳を介したり、筆談をするのではなく、敢えて「声」を拠り所にしたということですよね。
(百瀬)そうですね。これは2013年の作品なんですけど、やっぱり年月が経ち、上映の機会を重ねると、そういうふうに脊髄反射的に批判してくる人というのは数的には少なくなっていったように思います。この間も、自分が非常勤として働いている大学でこの作品の感想を学生さんたちに聞いてみたんですが、「見ながらヒヤヒヤしていたけど、だんだんその自分のヒヤヒヤしていること自体が正しいのかよく分からなくなってきた」と言ってくれた学生さんがいて、みんながそれに頷いていたり。単純な善悪のジャッジの前で踏みとどまって、もう少しそれを丁寧に観察してみるみたいなことが、自分より若い世代の人たちの方が自然にできるというか、得意なのかもしれないと思うことがあります。わたしもつい、すぐ物事を要約したくなる悪い癖があるので…。
やっぱりあの作品って、単純にそこだけではなくて、関係性の非対称性みたいなことがどんどん移り変わっていくんですよね。つまりわたしはある種木下さんに教えを請う立場であって、木下さんがそれに対して答えてくれるみたいな、学ぶ/教えるみたいなそういう関係性の上では、ある意味わたしの身体は従属的な見え方をしているということもできる。そういう関係性のバランスみたいなことが、シーソーのように常にグラグラしている状態だと思うんですよね。そういう意味では複雑なものを複雑なままに受け取るという、以前よりはそういう受け止められ方をするようになったな、というのは感じています。
(田中)映像はドキュメンタリーの体裁で作られていて、そういったトーンの画作りをされていると思うんですけど、その中でネイルの赤さがすごく際立ちますね。それは先程おっしゃった関係性の非対称性を強調させるような意図がありましたか。
(百瀬)そうですね。わたしは結構映像の中で整合性が取れないものだったり、なんでここにこんなものが?みたいな、そういうノイズみたいなものを結構意図的に仕込ませることがあって。あの赤いネイルもある種わかりやすい女性の記号みたいなふうに読み取られることもあると思うんですけど。私たちの手って表情以上に、勝手に自分の意識とは全然別に動いちゃったり、手汗をかいたりするように緊張みたいなものが勝手に現れてきたりもする場所だと思うんですよね。そういう意味で自分の統率できない身体が露わになるような、指先みたいなカットがあったら面白いかなと思って入れました。
それも非対称性の可能性に繋がるかもしれないですね。木下さんの部屋でわたしたち二人きりの撮影なので、結構緊張感はあるんですよ。そういうところで、ある種そういう記号で戯れるためのカットみたいな、ちょっと異物感があるものとして差し込んでみた気がします。でも当時は今ほど自覚的に何かやってたっていうよりは、結構感覚的に入れてみた感じかもしれません。
《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》
2013 / シングルチャンネルビデオ / 25min 30sec
(田中)その当時もろう者向けのテキストは公開されていたんですか。
(百瀬)はい。一応準備してました。というかそのテキストを作らないと木下さんが体験できないなって。
(田中)そこから始まるのが重要ですね。この展覧会でも希望者に配布している「ろう者向けのテキスト」について、改めてどういうことが書かれてるかお話頂けますか。
(百瀬)ろう者用向けのテキストは、聴者が聞くと途中から意味がわからなくなる「同唇異音」の音を含んだ、映像で流れている音声を最初から最後までそのまま書き起こしたものになります。なので最後の方のわたしの台詞部分には(無音)と書いてあります。文字情報だけでその異様さがわかるように、例えばなんか誤変換みたいなものを想像させるような、カタカナが急に入ってきたりとか、文章がバグったときのああいう怖さ、不穏さみたいなものが伝わるようにしました。それをろう者の方には会場でお配りしています。
(田中)木下さんも事後的に見られたということですね。
(百瀬)そうですね。そこではじめて音が変化するタイミングを木下さんは知られたと。あと、このテキストをわたしは自分のために撮影の前に作る必要があったんですね。唇からその無茶苦茶な音を発音するために、その内容を覚えなければいけないので。さっきも言ったように、一応見えないところにカンペみたいに貼ってあるんですが。
(田中)そうですね。一応グラデーションのようになっていて、最初は「あれ、今何か言い間違えたかな?」くらいの感じが、徐々に明らかにおかしくなっていくという。でも私たちのコミュニケーションも基本的にそうだと思うんですよね。伝わっていることを信じて言葉を発しているけれど、それは虚空に向かって声を投げかけているだけかもしれない。
(百瀬)わたしもあんまり滑舌が元から良くなくて、しかも声が小さくてこもってるから、しょっちゅう聞き返されることがあるんですよね。だから「正しい音」っていうのは一体何なのか、っていうことの曖昧さとかについても考えさせられました。そういった自分たちが知らず知らずのうちにやっていることがああいう形になっていると思うんですよね。なのでもともと、これってたぶん障害の問題ではなくて、コミュニケーションそのものの問題なんだろうなということはかなり強く制作してる段階から思っていました。ろう者用のテキストを書くことによって、よりそれが明快になった感じはありましたね。
(田中)この作品を展示させて頂いて今回改めて思ったのは、やはりこの作品の途中で起こる声の変化は、ろう者やあるいは日本語話者以外は同じように体験することができない。ただ、当事者が登場する、あるいは鑑賞者に含まれる場合、「情報保障」の問題がしばしば起こります。今回も情報保障の選択肢も考えましたが、そもそもこの作品が伝えていることが情報保障の核心に迫るものであり、コミュニケーションの手段に音声を用いている人でないと、その変化に気づくことはできない。そのこと自体がこの作品のメッセージとなっています。そのメッセージが、情報保障をすることで、凹凸が均されてしまうところがある。つまり、十全に通じ合ってしまうと、この作品は成立しない。また、それは百瀬さんと木下さんのコミュニケーションだけの問題ではなく、鑑賞者にも言えることです。そういう意味で、やはりこの作品は、聴者が無自覚に享受する音声優位社会に気づいてもらう作品だと感じます。一方、聴者が受ける衝撃をろう者と同時に共有することはできない。ろう者向けにiPadで発話されているテキストを表示する選択肢も考えましたが、費用面から断念しました。
「情報保障」が、身体的特性に合った方法でひとつの作品が与える体験をできる限り“同じように”受け取ってもらうこと、と定義すれば、同じように受け取られないこと自体が作品を成立させている場合、情報保障のあり方自体が、通常の考え方とは異なってくる。そもそも身体的特性がさまざまある中で「みんなが同じ体験を共有する」ということ自体が幻想だという思いから私はプロジェクトを立ち上げていますが、作品が最も伝えるべきことと情報保障の関係性について、改めて考えさせられました。
(百瀬)わたしにとってもそれは、田中さんと一緒にこうして対話しながら気づいた部分でもあると思います。会場でろう者用のテキストを配布していますが、上映中に字幕とテキストを同時に読むことはおそらく難しいでしょうし、それはほとんどの場合、上映後の事後的な体験になると思います。田中さんがおっしゃる通り、この作品の観客であるろう者は、この作品の「構造自体を理解する」ことのみが経験できるという意味で、いわば観察者のようなメタ的な位置にいるのだと思います。そこに体験の違いはあると思いますが、そこに体験の優劣があるとはわたしは思っていません。
翻訳された海外の小説を読んで楽しんでいるときに「やっぱり原文じゃないと読んだことにならないよ」と言われることがあると思います。初めてそこで同じ経験ができる、初めて作品が正しく享受できるのだという主張ですね。でもわたしは、そこで現れてくる個別の翻訳者の解釈によって広がっていく魅力もあると思っています。「クセのある翻訳だなあ」と思いながら読んでいるときは、ちょっと読者と観察者が入り混じったような状態になっているときがありますよね。コミュニケーション自体もそういう意味では、相手の言っていることを常に解釈し、おそらくこうなのではないか、という不確かな願いと共に、自分にわかる言葉に翻訳していくような作業なのではないでしょうか。
(田中)今英語の話が出ましたが、今回は英語字幕も付けていただいて、さらに複雑になっています。
(百瀬)英語字幕も、それまでずっと考えなきゃとは思いつつ、何を英訳したらいいのかっていうことが難しくてつけられていなかったんですよね。なので今回きっかけをいただけて良かったです。実際に壊れていく音を字幕で表示すると作品の性質が変わっちゃうし、とかいろいろ考えて、最終的に字幕に出ている日本語をそのまま英訳して下に表示することを選びました。時間が間に合えば本当は英語のろう者用のテキストも作りたかったですね。
(田中)そうですね。“正しい”日本語が何かという概念がない人が見てどう思うのか、そして何よりろう者が見てどう思うのかというのは引き続き意見を聞いていきたいと思います。私の周りのろう者が何人か作品を見てくれましたが、やはり字幕を頼りに理解しているので聴者と同じ体験はできなかったという人や、ろう者向けテキストがあることに気づかなかったという人もいました。また、会場でショックを受けた聴者から意見を求められたというろう者もいましたね。その人は、聴者がそんなに衝撃を受けて考えさせられているという面でこの作品は成功していると思うと答えた、と教えてくれました。
(百瀬)そこで聴者とろう者の間にコミュニケーションが生まれたんですね。英語に関してはいろいろ考えたんですけどね。ヘッドホンの別音声で吹き替えするとか。
(田中)なるほど。そうなったときに今度は「正しい英語とは何か」という問題になってきますよね。
(百瀬)そうですよね。しかも割とそれってセンシティブな問題でもあって、英語っていろんなアイデンティティを持つ人が使っていて、そこにある訛りやアクセントが、昔は恥ずかしいことのように思われていた。でも最近はどこの訛りというのが、その人のアイデンティティを反映するちょっとカッコいいものみたいなふうに意識が変わっていっているみたいですね。
(田中)そうですね、そのときにどの英語を採用するのかで作り手のスタンスが現れてしまうようなところもあって、さらに複雑になってきますね。この作品はその後もアカデミックな展開があり、その後「萌えいずる声」というシンポジウムが京都国立近代美術館で開催されましたね。
「萌えいずる声——百瀬文『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』上映+シンポジウム」京都国立近代美術館
撮影:守屋友樹
(百瀬)そうですね。この作品の上映+シンポジウムという形で、黒嵜想さん、岡田温司さん、そして木下さんが登壇されて、わたしも作者として参加しました。まず作品を上映し、わたしがあるレクチャーパフォーマンスのような形式でこの作品の説明を行いました。そこから3名の皆さんの専門領域における「声」にまつわる刺激的な発表があって、そのあとの鼎談にわたしも加わったんですけど、後半は頭がオーバーヒートして本当にハードな時間でした(笑)。作品の出演者である木下さん本人が、発表者として登壇してるっていうのが非常に面白いですよね。黒嵜さんは、アニメのキャラクターの口パクに声優が声を当てるという事実から、いわば恣意的な誤読によってキャラクターの声を成立させている「聴者のエラー」という視点を導き出し、この作品を読み解いてくださいました。岡田さんは、西洋哲学において「声」というものがどう位置付けられてきたのかという系譜を読み解きながら、「言葉(ロゴス)」と「声(フォネー)」の関係性を紐解き、声が必ずしも言葉に従属的になるのではない、別の形を持ちうる可能性などについて論じられていました。
最後に木下さんが発表されたのですが、時間を経て木下さんも客観的にこの作品についての経験を振り返ることができたんだと思うんですけど、彼の発表は「聾唖のサクリファイス」というタイトルだったんですね。先ほど申し上げたように、いわばろう者のアイデンティティがわたしの作ったフィクションの中では、本来のリアルなろう者の身体ではない形で捧げられているということについて論じられていました。木下さんは、自らの意思で捧げようと思った、という言い方をされていたのですが。出演している当事者として作品としての意義を認めながらも、そこにある問題も指摘してくださったんです。
当時のわたしにとっては、そのコミュニケーションの本質の問題を、フィクションとして現前させることが一番重要だったんですね。そのための導き役、メタファーとしてろう者の身体を扱ったのだということを、その頃はあまり自覚できていませんでした。寓話としてのろう者の身体を、ろう者に演じてもらったということです。ですので、それは言い訳せずに、当時のわたしはそうしましたと、ちゃんと認めたいと思っています。
わたしもこの作品を出すたびに、毎回すごく緊張するんですよ。やっぱり時代が変わっていくたびに、反応っていうのものも全然変わってくると思うので。様々なアイデンティティ・ポリティクスの知識に触れてしまった現在のわたしでは、この作品は作れないだろうとも思います。でも、そこで当時の自分がやりたかったことの本質を、それ自体は否定はできない。当時のわたしが何を信じてこれを作ったのかということをそのつど説明していくしかないなと思っていて、非常に労力が伴ったりもするんですけれども。木下さんは一人のろう者として様々な葛藤を感じながらも、この作品を世に出すことを応援してくださったので、本当にいろいろな思いを込めてこの作品を眼差していらっしゃるんだろうなと感じます。
(田中)なるほど。設定をどこまで明らかにしてから作品を見てもらうべきかという問題もありますね。今の社会では、正しさを求めすぎていて、少しのことですぐ炎上したり叩かれたり、一つでも事実と違っていたら全てが嘘になってしまうような極端な見方がありますよね。その中で、世界を立ち上げているのはそれぞれの体であり、その体が持っている感覚だったり経験がそこに影響を与えているという意味では、あらゆるものがフィクションの側面を持っている。ただそこにマジョリティとは異なる感覚や背景を持つ当事者が関わると、また別のベクトルの正しさが求められがちです。寓話としてのろう者の身体をろう者に演じてもらったという部分ですね。そこは当事者の中でも意見が分かれるところだと思います。
また、聴者の観客がこのような作品を見る時にあまりに無防備であるという問題についても考えていかなければいけないなと思います。それは無意識の差別や、逆に聖域化してしまっている部分もあると思いますが、マイノリティの文化や歴史への理解が圧倒的に足りていないことが背景の一つに挙げられます。もう一つは、この作品が伝えていることでもあると思いますが、自分がマジョリティであるということにさえ気づかないでこられた特権への意識が足りていないというのもあるでしょう。今後それらが進み、社会におけるさまざまな壁や分断みたいなものがなくなって「多様性」という言葉を使わなくて済むようになれば、またこの作品の受け止められ方も変わってくるんだろうなというのはすごく思いますね。
(百瀬)「これって木下さんに合意をとって作ってるんですか?」と確認することが、ある人にとってはたぶんすごく重要になるんですよね。つまり実際の、現実の肉体を騙して作られたものであるかどうかが問題になってくる。もちろんわたしもあらかじめ木下さんに説明をして合意を取っているし、それはものすごく大切な視点なんですけど、それが分かって「木下さん合意してるんだ、よかった」となって、じゃあこれは安全に鑑賞できるね、となったとして、そういうものなのかな、みたいな気もするというか。
合意っていうのはやっぱり、あくまでその場ではそうだったということでしかないと思うんですよね。
木下さんもその場で合意した後でも、たぶんいろいろ複雑な思いになったりとか、様々な逡巡を経て今を生きているわけで。それは木下さんに限らずわたしたち全員がそうだと思うんですよ。何かそこで合意して束の間の安心を得たところで、わたしたちが非常に不安定で、流動的な土台に乗った上で、常に他人とやりとりしてるっていうことは変わらないはずで。今回の展示のキャプションに、今まで話してきたような制作の経緯を詳細に載せていただくこともできたんですけど、そもそものそうした土台の不確かさに目をつぶって、ちゃんとわたしは正しい手続きをしていますよ、ということで自分を正当化した気になるのは嫌だったんです。
(百瀬)映像の中で「明石家さんま」って単語が出てくるシーンがあるんですけど、東京の観客は一切笑わなかったのに、関西で上映したらめっちゃそこでどっと笑いが起きてびっくりしました(笑)。でも、あの作品で笑いが生まれたっていうことがわたしは結構重要だなと思っていて。何ていうんでしょう、真剣なこと、シリアスであることって、一周すると笑いにもなっちゃうような感じがあるというか。そういうまさに複層性というか、そういう場としてわたしは作品が享受されてほしいなって思ってるんですよね、この作品に限らず。
かつて音楽評論家の中村とうようが、「黒人音楽とは涙を流しながら笑っている音楽だ」というような表現をしていたんですけど、本当にそうだなって思ったんです。
人間は泣きながら笑ってしまうことがある、ということとか、そういう状態の複雑さみたいなことを、複雑なままどうやって提示できるかってことが重要だなと思っていて、それは個別の身体を尊重するってこととも多分繋がってくる。
つまり、あらゆる身体って、いい意味でふてぶてしさを持っていると思っているんですよ。そういうものにちゃんと目を向けないと、勝手にこちらが先回りして弱者というレッテルを貼ってしまったりする。そういうところで失われちゃう豊かさってものがあったはずで、ある種のマジョリティの態度には、その先回り感をすごい感じるんですね。自分の体をそこに投じてみないとわからないことって絶対あるはずで。時にそれは傷ついたりもするかもしれないんですけども、いや、わたしは基本的には他人がものすごく怖い人間なんですけども、その反動なのか進んで他人に自分を投げ出そうとする習性があって。多分この作品もそういうところがあると思うんですけど。
《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》
2013 / シングルチャンネルビデオ / 25min 30sec
(田中)確かに笑いって個別の体に受容された結果起こるものとしてわかりやすいですね。人って必ずしも同一性が担保されているわけではないはずなのに、それを前提にすべて判断しようとしている傾向がありますよね。海外だと「インターセクショナリティ」という、人間はさまざまなアイデンティティが交差する存在であり、それらが相互に関連し差別や不利益のシステムが重なり合っているという基本的な考え方がありますが、日本ではまだまだ進んでいません。個別の身体を尊重することは、社会としてみればコストも時間もかかり、属性で分けてひと括りに扱った方が効率が良い。ただ芸術や表現までそのようになってしまうのは非常に危険です。
(百瀬)「孤独」っていう言葉がわたしは大事だと思っていて。一人ひとりが違う、それぞれ尊重されるべき個別の身体を持ってるということは、イコール自分がこの身体に幽閉された孤独な存在であることを受け入れるということだと思うんですよ。だからそこでわかりやすい共同体みたいなものに自分や相手を押し込めるんじゃなくて、孤独からスタートするみたいなことがすごく重要なんじゃないかなと思うんですよね。
木下さんもわたしも仲良く同じ地平に立ちましょう、っていう作品では全然ないわけで、むしろそこの限界が示されているようにも思えるし、でもその限界を知っている身体同士として、隣にいることはできますよ、という可能性の話でもあると思うんですね。
ちなみに作中に出てくる「孤独」という言葉を、私は「誤読」と読み替えています。唇の形が一緒なんですよね。どちらもわたしにとっては希望を指す言葉です。ここは狙ってやりました。
(田中)なるほど。たしかにあの映像に映っている二人はそれぞれすごく孤独ですもんね。あの映像のレイヤーだけで見ると。でも繋がろうとしている別のレイヤーがあると思うのですが、一見見えてるものとしては孤独なやり取りでもあります。そこから始まるということですよね。
(百瀬)そうですね。
(田中)あの作品を作って以降、百瀬さんの作風や作り方に影響はありましたか。
(百瀬)たぶん、この作品を起点にいろんなことを今まで考えてきたんだろうなというのは感じますね。基本的に「分かり合えない」というところからいかにスタートするかみたいなことは、継続して通奏低音のようにずっと鳴り響いている気がします。起こっている一つの出来事の中に実は両義性があったりとか、多重性があるみたいなこと、そこに惹かれているのはずっとあると思います。映像の中で形式的なギミックとしてそれを扱う場合もありますし、最新作『Flos Pavonis』(2021)のようにたとえ映画的な作品であっても、そこに人間が抱えているさまざまな整合性の取れなさや、矛盾を描き出すこととかは、多分ずっとやってきたことなんじゃないかなと思いますね。
(田中)私は百瀬さんのその他の作品も見させて頂いて、テーマのひとつとして主従関係があるように感じます。それは人と人、人と動物もそうですが、声と身体など、自分の身体さえも自分の支配下に必ずしも置けるものではないことも含まれていますね。
(百瀬)そうですね。あとわたしは従属する側っていうものが常に絶対に弱者であるというふうにもあんまり思っていなくて。自ら望んで、ある特殊な場、瞬間において、この人にならこの体を差し出してもいいっていう心の動きだって絶対あるはずなんですよね。それってある種の信頼関係だと思うんですよ。
なのでそういう、ある種それはわたしはマゾヒズムの悦びっていう風に自分の中では思ってるんですけど、そういう自身の身体すら脱ぎ捨てて相手に委ねたくなるみたいな欲望もそこにはあるはずで。「自己」というものをわたしが所有している、わたしが完璧に統率しているっていう感覚から、解き放たれること自体が結構重要なことなんじゃないかなって思うんですよね。
《Flos Pavonis》
2021 / シングルチャンネルビデオ / 30min
(田中)なるほど。いつも百瀬さんの作品を見ると、先ほども仰ってたように百瀬さんが身を投じている、捧げていると感じるのですが、一方で見る人は、それを見せられることの暴力性を指摘するのかもしれません。そのことについてどう思われますか。今の信頼関係のお話とも通じるかもしれませんが。
(百瀬)たぶんそういう人にとっては、おそらくわたしと木下さんの個別の信頼関係を想像することよりも、「聴者がろう者にこんなことをしている」っていうカテゴリー同士の、そういった関係性の方がたぶん打ち勝っちゃうんだと思うんですよね。その人たちの問題意識が普段からそういうところに向いているということもあるのかもしれません。あとやっぱり、自分の暴力性に気づかないことの方がわたしはすごく怖いんですよ。「わたしは暴力的な人間ではない」って言わなければならなくなっている、もしくは素朴に言えてしまうっていうことの方が、どうなんだろうって感じはします。うまく言えてるか分からないですけど。
(田中)見てる側のスタンスや見方が鏡のように跳ね返ってくる、それが時には暴力性を増幅する、というのは映像というメディアが持つ力でもありますね。
(百瀬)わたしは出身が油絵学科だったんですけど、もともとは普通に絵を描いていたんですよね。ただ、絵を描いているとどうしても自分が一方的に絵をまなざしているような感じがすごくあって、本当は絵自身にまなざされ返すみたいな経験がしたかったんです。
そんな絵を本当は描きたかったんですけど、全然うまく出来なくて。その後で、「じゃあカメラにまなざしてもらえばいいんだ」と思って、自分でパフォーマンスをしてそれを三脚に置いたカメラで記録するという表現に移行したんです。カメラに射抜かれる、みたいな感覚がわたしの持っているマゾヒスティックな欲望とめちゃくちゃ合致しまして。最初の頃はカメラマンとかを使わずに全部一人でやってたんですよね。だからピントもブレブレだったりするんですけど。自分でそこにカメラを置いて、自分がそこに立って何かをするっていったときに、自分ではないものに見つめられるっていうことが、私にとっては何かを手放す経験でもあった気がして。最近は映画っぽい作品を作ってもいるんですけど、カメラマンの人に「大体こういう感じでお願いします」っていうすごくざっくりした絵コンテを渡して、それでお願いしたりとか。そういう自分のコントロールが及ばない空き地みたいな場所をどれだけ用意できるかということが制作ではすごく重要で、やっぱり最初の予測通りになっちゃうと全然良くないなっていうのは毎回ありましたね。
(田中)第三者が撮っていても、自分が眼差されて、自分が自分を眼差すということは起こっていますか。
(百瀬)そうですね、わたしはけっこう自分自身が出演し続けてるんですけど、それはやっぱりどこか他人のような自分が映るのが面白いからなんですよね。
(田中)なるほど。確かに自分が出られてるのも特徴ですよね。ある種「持てる者」が持つ罪深さを引き受ける存在として登場しているように思えます。
(百瀬)この作品から自覚し始めたのは、そこにある種の暴力的な構造みたいなことがあるというときに、カメラの前で自分の身体も同じ立場に置かれるということで、何とか自分の中での倫理を担保しようとする心の動きだったんですね。でもそこには同時に、そんな状況にぶち込まれている自分の姿を写してみたいというマゾヒスティックな欲望もあるので、それって全然倫理じゃないじゃんという(笑)。そういう側面がない人にとっては、なぜわざわざそういうことをするのかと、暴力性を感じさせてる部分もあるのかもしれないですね。
なんかこうアンパンマンじゃないですけど、自分の顔をちぎって相手に無理やり食べさせてるみたいな感覚があって。でもその瞬間には、わたしも相手の顔を食べてみたい、という欲望がきっとあるはずなんですよね。全然うまい比喩じゃないかもしれないですけど。
(田中)責任や倫理と言う時に、どうしても個人の関係性や個別の身体との距離があると感じていて、何か違う言い方がないかなといつも感じています。「顔をちぎって相手に無理やり食べさせている」は言い得て妙ですね。
(百瀬)なんかエクスキューズみたいになっちゃいますよね。義務みたいな。世間でそれを持たなきゃいけないことになってるから持つみたいなところで思考が止まっている部分というか。
昔から小説の世界だと、本当に倫理的に破綻してる、まったく共感できない主人公とか出てくるじゃないですか。やっぱ現代美術の受容のされ方というのがある種、何がそこに写っているかっていうことを、あんまり括弧に入れることができなくなっている気がして。露悪的なアイロニーが単なる攻撃に見られたり、映っているものがそのままベタに作家のメッセージとして受け止められてしまったり。「こういう人もいる世界」というものをそのまま表現できるという意味で、文芸の世界のほうがまだもっといろんな変なもの、間違った人を間違った人として書けて、なおその複雑さを味わってもらえる土壌が広いんじゃないだろうかとか、そんなことを思う時があります。自分が疲れてる時に隣の芝生が青く見えるだけかもしれないけど…。
人は食べられたい、食べたいって思うことはある、というようなことを、わたしは一個人として言ってみたいんですよ。言わないと最初からいなかったことになっちゃうというか。
(田中)そうですね。それってやはり、本当の意味で芸術が社会に馴染んでこなかったというか、限られた人が共有する文脈や言語に依存したものになってきてしまったということなのかなとも思います。もっと小説のように普遍的な表現形態として多くの人の目に晒されていたら、もっとキャパシティーが広くあれたはずなのに、どんどん狭くなっていると感じますね。また、最近はアートをサービスのように捉える傾向もあると思います。チケット代や時間という対価を払ったのだから、作品はわかりやすいものであるべきというような。自分の価値観が脅かされうることはあまり想定されていないとも言えます。
鑑賞者が作品を一方的に眼差すことが持つ暴力性に気づかない方が、自分は安全な場所から見物できるし、そうすれば作品が伝える痛みを回避することもできる。一方芸術は、正しさに回収されない価値観に遭遇したり、無自覚に受け入れている社会規範や無意識に醸成されてしまった思考を揺さぶられる経験もさせてくれる。私もエコーチェンバーの中にいることを自覚することがしばしばありますが、自分と相容れない価値観を排除することが容易になったことで、なぜそれを相容れないと思うのかを議論する機会さえ減っているように思います。世の中はどんどん複雑化し、見方によって価値判断が異なる問題も多い。そのような中で、自分の範疇を超えた身体や価値観に対峙し、想像する力を養うことが、芸術に触れることの意味だと思います。
(百瀬)わたしなんかは結構、美術館ってちょっと傷つきにいく場所みたいな風に思ってるところがあって。茫然自失で家に帰ってきたりとかするわけじゃないですか、ものすごいものを見ると。自分っていうものがすっかり書き換えられてしまうような、そういう経験。だからある種の喪失であり、傷つきではあるんですよね。でもその傷が修復される過程で、わたしがわたしではないものに書き換わっていく、そういう喜びっていうものも一方ではあって。自分が美術館に通ったり、芸術に触れるモチベーションっていうのはそういうところでしたね。
詳細は各イベントページにて随時お知らせいたします。
「語りの複数性」関連イベント
プレトークでは、展覧会「語りの複数性」のはじまりや出展作家の紹介をしながら、展示室において鑑賞者による複数の想像が立ち上がる空間をどのように設計できるのか、本展の会場構成を担当する建築家の中山英之さんにお話を伺います。
※ろう者による手話通訳+バリアフリー日本語字幕付き
「語りの複数性」関連イベント
本展企画担当者が会場にて作品解説を行います。(30分程度を予定)
※当日先着順(要整理券)。
開始1時間前より整理券を配布いたします。(整理券配布場所:展示室受付)
※手話通訳付き
「語りの複数性」関連イベント
10月23日(土)16時から18時にかけて、出展作家の山崎阿弥さんが在廊し、 時々館内にて声のパフォーマンスを行いました。当日の様子を、トークの映像とともに、配信中です。
「語りの複数性」関連イベント
出展作家の小島美羽さんに、作品や制作について伺いました。
「語りの複数性」関連イベント
普段は想像もしない誰かの身になって考える、そんな体験ができる最も身近な方法のひとつとして読書があるのではないでしょうか。そんな思いから、読書会を開催します。 同じ一冊の本を、アイデンティティや障害の有無、セクシュアリティの異なる私たちで読み、私たち自身の経験や触発された情動の、複数のままならない「語り」を一緒に体験しませんか。
本展は、情報が溢れるからこそ貧しくなっていた、さまざまな語りのあり方と、その語りを紡ぎだす身体を想像する展覧会です。8人の作家による写真、絵画、模型、描譜、映像、音といったさまざまな形態の作品を紹介します。