齋藤春佳「とどく」4

「とどく」齋藤春佳

●2021年6月15日の日記から

やる気激しい。
「大豆田とわ子と三人の元夫」の最終回があるからなんか感性がピリピリしてるきがする。
ヨガして、筋トレめちゃする。
数学の問題解いてから家出る。
連立方程式便利だな。本当に忘れていた。
ほとんど運動神経で解いてるから、だから点数取れるけどわかんなかったんだなとわかる。今ですら仕組み読んで理解する前に運動神経で解くのが止まらなくって、まあ答えは合ってるんだけど、合ってるから先生はまるするしかないだろうけどこれじゃ頭打ちだろうとは思う。つまりバカ。バカの100点はあるんだ。頭の中で起きてることとテストで測れる範囲は、必ずしも重ならなくて、本当のところはよっぽどのテストじゃないとわかんないだろう。

アトリエまで、大木さんの高校生の時に描いた絵を持って歩いている。この歩いて移動している自分の運動性と、絵の持つ見られた時発されるはずのポテンシャル、静止した運動性が、世界に響くような気がしながら、私が通り過ぎるのを待って斬りまくるのをストップする植木のカット、切られた木、遠く高くに揺れる笹、その手前に電線に止まる鳥を見たりしながら歩く。

アイメイトの碑というのがあって、「ん?」と一瞬戻る。

何度も通った道、なんでもないマンションの前。
だからオンゴーイングの前は盲導犬の訓練をする犬が時々歩いていたのか。

私は大方目に見えるものを作っているという自覚があって、目が見えなかったら今の所私の作品って楽しめる要素があまりなさそうというか、気にだけはずっとしていて「目で見るものを作っています」と言っていた時期も長らくあった。(今は「美術作家です」期)

もしかしたら、目が見えない人にも自分の作品を楽しんでもらえる方法も、見つけることができるのかもしれないと、今は、少し思っている。
例えば、描かれた絵を見る時の運動性だったりの、実況?

そう思いながら歩きながら頭に言葉が整理されないままよぎる。
私が聞こえるように、あの子は踊れると言えて、
あの子が聞こえないように、私は踊れないとも言えるだろうか? 
訓練で「できる」と言う範囲に入っている能力と、そうではない「できる」がある。
だから、「できる/できない」の言葉に一緒に丸めてしまったらそれは、軽視している。

でも、それは世界が今こういう仕組みだからで、形が違う世界ならば私は普通じゃないくらい踊れない(この世界の形においてだって普通かあやしいものだけれど)。

シュロの木を見上げる、窓に映っていて、他の見え方がした。
アトリエに着いて、それを描いたり。
*「描こうかな」と、とどく3で書いたこと。

とどくのプロジェクトにあたって、作品全体の方向性みたいなものが固まっていかない。
でもそういうふうに今までどんな展覧会も作ってきていない。方向性がないまま出来事やものを増やしていくしかないのかしら。どうなんだろう。

蒟蒻畑描いたり。
絵の具をぺっとりのせたり。

描いてたらおもしろくて7時とかになっちゃって、歩いて帰ったら帰りがけ、踏切の前で大雨が降ってきて、Iに迎えにきてもらう。

唐揚げ食べる。今日自分が買ったのと全く同じセブンの炭酸水があって急にこの炭酸水の見た目に関して思うものの分量が自分の中であがってくる。目が開いてくるというか。

IがYouTubeでくるりのライブ見ていて、
はるちゃんこういうのこのアルバム好きじゃないもんね
うん…あーこれね、うん…!かまととぶってるかんじのやつは、いやなんだ
よね
でも俺こういうのすきなんだよな

しかし岸田はいつまでも気持ち悪い見た目だからいいよね
うん…そう…でも、主人公顔じゃない?
たしかに、ダメなところから始まる的な
うん、小説とか読む時に思い浮かべる主人公の顔だよね
(って言いながら私は、ゆえに、きしだかっこいいと思っている)

「大豆田とわ子と三人の元夫」最終回に大感動する。ポロポロ泣いたりしながら、ニコニコ笑って終わった。DVD買う。

【文・画像提供:齋藤春佳】

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