齋藤春佳23 【伊藤亜紗さんのトーク/個別の体を駆動するコード/手話を覚えてもいいのだと思えた。】

「とどく」齋藤春佳

2022年10月16日のメモから段々に思い出して書く。

赤ちゃんを家において、伊藤亜紗さんと小川さんのトーク、聞きに出かける。
なんか出産で体の形が変わっちゃったまんまでズボンが入んなくてウケる。小学校の時のバイオリンの発表会用にお母さんが作ってくれた黒いストンとしたウエストゴム
筒のようなスカートが履けたので履いていて、これが自分が持ってる1番古い服かもしれない。と思いながら渋谷のスクランブル交差点を抜けていた。
渋谷のスクランブル交差点というものが小学生の自分から見たらとても遠い場所だから、思わずその自分を見つめ返していたのかもしれない。
(かもしれない。当時の未来の今から思い返してさらに思っている、自分の感情への推察。)


トークを聞いていたら頭の中でいろんなボタンが押されるみたいな感じで、頭の中で言葉が洪水みたいになってきた。

“コード”
と思った、
トークを聞いている私たちは別々のコードを持って、ここに集っている。

赤ちゃんのコードで赤ちゃんは話す、
まだ生後50日の赤ちゃんも、話している、赤ちゃんのコードで

そこに勝手にこちらのコードの言語で話しかける
伝わることや伝わらないことがあるけど、

伝わるということは
この1文字1文字が通じると言うことだけでは絶対にない。


赤ちゃんにはこっちの言語に合わせてもらう、赤ちゃんの方が成長ができるから、脳の可塑性が高いからそのほうがきっといい。だけど、申し訳ないですね、こっちがそっちの言語を知らないからと言って。ありがとう。

でも赤ちゃんと一緒にいる空間では、赤ちゃんのコードに合わせて、この言葉使ってる。一個一個。

だから、今日トークで、別の、大人のコードでこの言葉を話している人たちの言葉を久しぶりに聞いたら、頭の中で言葉が洪水みたいになったっぽい。
なんか コード コード 書いてたらテキストの見た目がスピリチュアルな雰囲気になってきた、いやだ!誤解です。


トークの内容
コミュニケーションの時間について
2人で向き合って話したりするだけじゃなくて
1人の時間もコミュニケーションにふくむことになる。手紙ってそういうことが起こりやすい形式。
この展示の
何かを解決したりしようというものではない態度
それって
この社会の中での意義みたいなものにならない
って、
そんなこと許される?
って話

それを聞いて頭の中に浮かんだたとえば小説の時間
小説を読む時間は意味にならない、意義にならない、読んだことの成果なんてない、役立たない、絵だってそう
でもそれがないと多分人は生きられない。
フィクションというか、現実の形を規定してくるなにかが、私たちの現実生活には必要だし響いている。朝起きて夜寝るのだって、それが当たり前だと規定されているからそう。
この私たちの生のかたちが現実っぽい顔をした社会的言語?によってだけ決められていったらきっと、ぜったい、細っていく。


利他 は
自らたのしむみたいなこと
と言う発語を聞いた

誰かのためだとは決して思わないまま

結果を求めない 成果を求めない

それって自分の制作じゃん、うまくいってるときの制作じゃん、バイオリン弾く時じゃん、たとえば山登りじゃんってことは西田幾多郎の純粋経験じゃん、と自分の理解に引き寄せて思ったり


「利他」は、こうだ!と決めきれないというような話
倫理というものは、
ひとつひとつの個別の出来事の中にあり、一般化できないという話
利他、倫理は出来事、行為の中にある、という話だとだんだん勝手に理解していく
行為の前後にあるともしかしたら言えるかもしれない。
だから、同じ行為をしてもそれがその時、利他に当たるかはわからない。
それはそれぞれ人間が持つコード、スペース、体によって、ひとつの「利他」という言葉の形がやっぱり別々に理解される。

ただ、伊藤さんは、本を書いている
本を読むとその時間を生きることができる
そうすると、それは「利他とは〜だ」と一言で言うのとは違う、一人一人の体を伴った、経験を伴ったできごとが起きる
だから、
本を読むと
その本にあるコードが、自分の中に増える、ひとつというよりじわっと増える
だから、
本が読まれることで
コードが通じる人が増える。
って素晴らしいことだなと思った。
勝手に思っていた。


トークの終わりに紹介してもらって、少しそのことも話したけどうまく話せたかはわからない。伊藤さんは私の目を見て聞いてくれていた。



じゃあこの展示はどうなんだろう、
多分この展示全てを読み解けるコードを持っている人はいない。作家もそれぞれのコードでやってるし、時間が長いし、3人いるし、この展覧会の組成の全貌を見渡すことが出来る人は、実はこの世界に1人もいない。
コードっていうかコンテキスト
コンセプトじゃなくてコンテキスト
文脈
経緯

このプロジェクトの経緯とかを
どこまで見せるか問題は、
全部全部見せすぎるくらい見せても、
いいのかもしれないと思ったりした。
見せ過ぎても、わかんないから。


出産しました、って言っても
それを聞いても
わかんないから、
もっと細かくどうだったか言っても、
わかんないから、
でも、
言わないともっとわかんないから、
他者である本人が一方その頃どうだったかも語り出せないから、

説明し過ぎたりしても、大丈夫なのかもしれない。



展示室ぷらぷらしていたら
ろうの方に声をかけられた。
肩を叩いて声をかけられた。

ビデオ作品を指して
「どうして指文字をやろうと思ったのですか」
と画面に書いてあって、
自分のケータイを取り出して書こうか、とすると、
「ううん、ここに向かって喋って」
とジェスチャーと声で言われて、彼女のケータイに向かって喋る、そうすると私が喋った内容がそのまま音声入力されて、画面に表示されていく。

私は滑舌が悪いし、ン〜とか言うから、変な表記になっちゃうのを、言い直したりしようとすると、

「ううん、このままで大丈夫」

と声とジェスチャーで言われて、
だから全然綺麗なテキストではないものができていくんだけど、おそらくその打ち込まれていくテキストを補助的に使って、もしかしたら少しだけ聴こえているのか、とにかく私がただ口で話している内容を聞いてくれているので
「手話や、文字での文章ではなくて
健聴者である私の放つ指文字での文章と
日本手話話者である読み手にとって指文字での文章は
互いのちょうど間の位置に位置するんじゃないかと思ったりしてそもそもは始めた」って説明したりして

「指文字の一文字一文字が、手紙の文字みたいな感じ、手話は顔を見て話すみたいな感じだと感じていたり」
「わかりました」
「わかりました?ありがとう。」
「指文字を覚えるのは大変でしたか?」
「ちょっと難しかったです」

「きっと手話も、できるようになりますよ!頑張って!」

と、書き文字と、声とジェスチャー全部で言われて、
「ありがとう」と見よう見まね手話で言うと、
こうだよ、と直してもらった。


このプロジェクトが始まって以降、初めて、ろうの方と直接お話する機会だったかもしれない。
そんなに機会がなかったのかと、びっくりもした。

なんだか、
どこまでも解像度を高めてもいいんだと思った。そう思ったら、手話を知ってしまうことをおそれないきもちになった。
手話を勉強したくなった。
人の放つ空間というものと手話がくっついたものなのもあるかもしれない。
知ってしまったら知らない時点に戻れない、と、最初思っていた。

けれど、
知ったとして、分け入っていったとして、細かく伝えられるようになっていったとして

本当に伝わらない
伝わるようにしか伝わらない。

コードを持っていないと、
同じ言葉でも同じようには伝わらない。

だから、分け入っていい。
いくつもの、細かい、個別の出来事を、実行していい。
それをまた、読んだり見たり聞いたりと言う実行を、個別の人がする。

この展示にまつわるコンテキスト、情報をどこまで開示するか、開示しきっていい、作品の画像もバンバンSNSに載せていい、空間にきてそれをみるのとは全然違うから。
だから手話もどんどん覚えていい。
実行者としての体、コードを得ていい。


トークを聞きに来なかったらこれが起こらなかった
空間に直接いる、ということはすごいことだ、すごくないかもしれないけど、
それでも
いや、すごいことだやっぱり。
空間にいるといないとじゃ全然出来事の次元が違う。



そもそもトークも、あとから記録を見せてもらえばいいかな…とも思ったりしたけど、来てみてよかった。来てみたら、体を駆動して話している人と人がいること、しかも手話通訳の橋本先生と加藤さんの体もある、駆動している、その放つもの、そこに居合わせることで、画面の中の記録を見たり後から話を聞いたりすることでは得られないことが私の体に起きていた。

【文:齋藤春佳】

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